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小沢城(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC03624.JPG←城域西端の竪堀
 小沢城は、天神山城とも呼ばれ、多摩川南岸に広がる丘陵地に築かれた山城である。鎌倉幕府の御家人小沢小太郎重政の居城とされる。重政は、坂東八平氏の一、秩父氏の庶流で小山田城主小山田別当有重の子、稲毛三郎重成の嫡子である。重成は源頼朝の重臣で、小沢城を長男の重政に譲り、自身は東南4kmにある枡形城へ移ったと言われている。その後重成は、畠山重忠を讒訴した為に誅殺された。小沢城は、多摩川の渡河点を扼する要衝にあった為、鎌倉時代から戦国時代にかけて度々合戦の舞台となった。南北朝時代の1351年、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱の際には、小沢城に籠もった直義方の軍勢を、尊氏方の高麗経澄が攻撃しこれを焼き払った。戦国時代に入ると、1504年に小田原の伊勢宗瑞(北条早雲)の軍勢が、扇谷上杉朝良を助けるために小沢城付近で山内上杉顕定の軍を打ち破った。また1530年には、武蔵最大の勢力を持つ扇谷上杉朝興と武蔵に勢力を伸ばしつつあった北条氏綱の軍勢が、小沢城近くの小沢原で激突し(小沢原合戦)、これが初陣となった北条氏康は見事に勝利した。その後の歴史は定かではないが、北条氏の勢威が武蔵を圧すると、小沢城の戦略的価値はなくなり、廃城になったものと考えられる。

 小沢城は、山の斜面に段々に曲輪を築いた、比較的古い形態の城であるが、堀切・竪堀や櫓台など、なかなかバリエーションに富む縄張で面白い。浅間山や小沢山の頂上には物見台が設けられ、その下には馬場とされる曲輪があり、曲輪の北端に櫓台があり、山頂の物見と櫓台の間は通路兼用の堀切で分断している。馬場の西側下方には2段の曲輪が広がり、特に下側の曲輪は面積が大きく、居館跡とされているようである。尾根の西側と東側は堀切で分断し、そのまま明確な竪堀となって斜面を下っている。不思議なのは、こうした曲輪群がほとんど南斜面に集中していることである。鎌倉を防衛し、多摩川の渡し場を押さえるならば、もっと北側斜面に曲輪を集中しそうなものだがどんなものであろうか。それにしても、城址は比較的きれいに整備され、山城なのに夏でも藪やクモに阻まれることなく訪城可能であるのはありがたい。古い形態だが良好な山城遺構である。
居館跡の広い曲輪→DSC03613.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.631942/139.522655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世山城
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