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石神井城 主郭特別公開 [城郭よもやま話]

DSC06173.JPG←主郭内から見た南側土塁
 今週、東京文化財ウィーク2010が開催されており、例年の通り石神井城の主郭が特別公開された。そして今日は、発掘成果の解説会があったので参加してきた。

 まず始めに石神井城の歴史の説明。一通りは知っている内容だったが、道灌が豊島氏の城で最初に攻めたのは、平塚城ではなく練馬城とする説もあるとのことであった。また、通説とされている経緯は、全て道灌側の資料に拠るらしい。豊島氏時代以降に再利用されなかった為、戦国期以前の城がそのまま残った貴重な遺構である。

 次に城の概要の説明。主郭のかなり東にあるふるさと文化館周辺でも溝などの遺構が発見されているそうで、外城に当たるらしい。道灌が「外城を攻め取った」と記録にあるのは、この辺の可能性があるとのこと。ここから推定すると、石神井城も他の大型中世城郭と同様、外城・中の城・主郭の3段階構造になっていたらしい。

 そしていよいよ遺構の説明。主郭西側に残る土塁は、現在は2.5mの高さしかないが、往時の推定高さは5m程と言う。版築で黒土と赤土を交互にして粘り気を出し強度を増した為、500年の風雪にも耐えて、これだけの高さが残っている。又、空堀は深さ6mの箱掘で、発掘調査前の想定は深さ3m程度だったが、想像以上に深かったそうだ。堀底から土塁の頂上までの高さは合計10m以上に及び、しかも調査の結果堀の塁壁角度は60~70度とかなり急で、とても登れなかったろうと思われる。そして堀幅は12mあったが、主郭土塁上から堀外まで約22mあり、中世の矢の殺傷距離が20mと言われるので、それを考えて堀幅を決めたらしいとのこと。

 空堀は発掘調査の結果、道灌が石神井城を破却した際、堀を3m程埋めたらしい。ただ差し引き3mの深さは残っていたわけで、堀の機能を全て殺したわけでなく、いざと言うときには使えるようにしたようだ。地表から2m程下は江戸時代に相当し(その深さから寛永通宝が発見されたことが根拠とのこと)、踏み固められているので、江戸時代には堀底は道路として使われていたらしい。

 最後に主郭であるが、江戸時代以降、牧場や大学の寮として使っていたらしい。周囲を土塁で囲われ、平坦地だったので好都合だった様だ。東隣の民家(この地の名主さん)が西に敷地を広げ、主郭東端を削ったそうである。そのため主郭東側の土塁や空堀は湮滅している。主郭内部には大型の建物は見つかっておらず、掘立建物しかなかった様だ。主郭内からは中国製の輸入陶磁器(青磁など)の破片が出てきたそうで、15世紀頃のものと考えられ、祭祀用のようなものが多かったと言う。高級製品を買えるだけの財力を持った豪族の城の証左の様だ。

 その他では、西の外郭の堀は、発掘調査できないのでレーダー探査で推定したが、年代までは確定できていないと言う。

 さて主郭の遺構であるが、主郭西側と南側に土塁が残り、三宝寺池に望む北側にも北西部にのみ土塁が残存している。元々は北側全てに土塁があり、後に湧水に侵食されて湮滅したのかもしれない。土塁の北西角は最も高くなっていて、櫓台が築かれていた様である。西側の土塁は高さ2~3mもある重厚なものであるが、南側の土塁は西側よりも低く幅も狭い。こちらの中央部付近は窪んでいて、虎口があったものと思われる。この南側はかつての堀底を改変した車道で、かつては木橋でこの堀を渡って二ノ郭に連結していたと考えられる。

 以上のような感じで、普段は公開されていない貴重な遺構が見れただけでなく、興味深い内容を聴くことができた貴重な機会が持てた。ただ全体に藪がひどく、南西側の空堀や土塁など、写真を撮ってもただの藪にしか見えない。特別公開期間だけでも、もう少し整備してもらえるとありがたい。
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