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深大寺城(東京都調布市) [古城めぐり(東京)]

DSC03749.JPG←二ノ郭から見る主郭虎口と土塁
 深大寺城は扇谷上杉氏が小田原北条氏に対して築いた城である。1524年、北条氏綱は扇谷上杉朝興の江戸城を攻略し、武蔵に重要な橋頭堡を得た。扇谷上杉氏は河越城まで後退したが、1537年、上杉朝定は亡父朝興の遺志を継いで江戸城の奪還を企図し、深大寺城を「再興」して、老臣難波田弾正広宗を深大寺城の城将とした。(「再興」とある通り、元から城塞があったようだが、最初の築城者・築城時期は定かではない。)これは西から江戸城の側背を突く為であったろう。これに対して北条氏綱は、重臣の北条綱種(本氏高橋将監種政)・高橋氏高兄弟に命じて、深大寺城の東方に牟礼砦烏山砦を築いて対抗した。おそらく難波田氏の江戸城への進出を食い止め、来るべき河越城攻略戦を有利に展開する為であったと考えられる。この砦の構築が功を奏し、氏綱率いる本軍はまっすぐ河越城を攻め、同年7月15日、これを陥とした。上杉朝定は家臣上田氏の拠る松山城に敗走し、一方、河越城の失陥によって深大寺城の戦略的意味はなくなり、おのずから深大寺城周辺も北条氏の支配下となったと思われる。その後、深大寺城は廃城になったと思われる。

 深大寺城は、現在神代植物公園・水生植物園の一部として整備されている。戦国時代前期に役目を終えた比較的古い城であるが、縄張りが明確で、土塁・空堀などがよく残っている。低湿地帯に半島状に突き出た台地上に築かれた城で、先端に主郭を置き、主郭周囲には土塁・空堀を設け、その周囲に二ノ郭、更に土塁・空堀を跨いでその西側に三ノ郭を置いている。また主郭と二ノ郭には腰曲輪が設けられて防御性を高めている。各曲輪間を分断する空堀は最大でも深さ5m程で、一ヶ所ずつ屈曲して横矢が掛かり、主郭では屈曲部に櫓台が築かれて堀底の敵兵を迎撃できる様にしている。二ノ郭はかなりの広さを持ち、発掘調査の結果、建物跡の柱穴が見つかっている。三ノ郭は残念ながらテニススクールなどが置かれてかつての面影は失われているが、テニススクールに至る道は二ノ郭の空堀跡で、両側を土塁で囲まれている。

 関東の新旧勢力の交代劇を象徴する城で、遺構の残りも良い。しかも扇谷上杉氏が南武蔵に残した最後の城で、その後の修築がないため、扇谷上杉氏と北条氏の築城法を比較する上でも重要な城である。
二ノ郭外周の土塁→DSC03809.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.664531/139.551237/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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コメント 2

竹

どうも「再興」前の城の築城者も扇谷上杉氏のようです。時代はおよそ1490年前後でほぼ確定と思います。だいぶ歴史がわかってきて、国の史跡にも指定されたので、もっと一般の方々にも知って頂きたいですね。
by (2010-11-07 20:32) 

アテンザ23Z

>竹さん
なるほど。
当時の書状などを丹念に当たると、きちんと深大寺城のことが書かれているのですね。
大変参考になります。
今後も何かありましたら御教示いただければ幸いです。
by アテンザ23Z (2010-11-07 22:14) 

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