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清洲城(愛知県清須市) [古城めぐり(愛知)]

IMG_5109.JPG←清洲古城の碑
(2004年4月訪城)
 清洲城は、五条川西岸に築かれた平城である。若き織田信長の居城として有名であるが、元々は1405年に尾張守護斯波義重が下津城の別郭として築いたと言われている。後、応仁・文明の大乱が起き、各地の守護勢力が没落して尾張でも騒乱が国内を覆うと、守護の斯波義廉は下津城に代わって清洲城に守護所を移した。しかし義廉は、もう一つの領国越前にあって尾張の守護権力は空白であった為、将軍足利義政は織田敏定を尾張守護代に任じて清洲城主とし、尾張鎮定の任に当たらせた。一方、織田氏の庶流織田信秀(信長の父)は、1532年に駿河の戦国大名今川氏の尾張経営の前進基地であった那古野城を奪って、那古野城を居城とした。1555年、那古野城主織田信長は、伯父の守山城主織田信光と共に、守護斯波義統殺害の仇を報いて清洲城主織田信友を清洲城に討ち、清洲城に入城した。1560年桶狭間の合戦の際には信長はこの清洲城から出陣し、少数精鋭の軽兵で以って驟雨の中を今川義元の本陣めがけて奇襲を掛け、義元の首を討ち果たす大戦果を挙げた。信長の居城となって以降、城は次第に整備拡張され、当初は一重掘であったものが、信長の次男信雄が城主となった1582年には三重掘の構えとなった。信長は尾張国内の同族を討ち平らげて一国を平定すると、美濃侵攻を企図して1563年に小牧山城を築いて居城を移した。以後も尾張経営の拠点として存続したが、1600年の関ヶ原の合戦で覇権を握った徳川家康は、大阪城の豊臣秀頼を包囲牽制する為、1609年諸大名に命じて新たに名古屋城を築城し、「清洲越し」と言われる清洲の城下町丸ごとの移転を行った。以後、清洲城は廃城となった。

 清洲城は、現在では遺構はほとんど湮滅しているが、清洲公園として残っており、清洲古城の碑や信長の銅像が建っている。碑が建っている部分の土盛りが、天守台の跡だったらしい。公園中央を東海道新幹線・東海道本線がぶち抜いているなど破壊はかなり進んでいて、かつての縄張を想像することすら難しい。ただ、五条川西岸の遊歩道に、発掘された本丸南側の石垣が復元展示されているのが唯一の遺構であろう。尚、五条川東岸に建つ模擬天守は全くの創作で、史実とは全く関係ないものであることを付記しておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.217654/136.841798/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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らんまる

山岡荘八の織田信長に出て来た清州城の光景は、僕の城に対する憧れの原点でした。
観光の目玉として全く違うものを建てる愚かさには閉口せざるをえません。
土の城が物語る栄枯盛衰の夢が救いなのかもしれませんネ。
by らんまる (2010-12-01 22:04) 

アテンザ23Z

>らんまるさん
全くおっしゃるとおりです。
でもようやく最近は、
そういう史実を無視した天守を建てる風潮も廃れてきたようなのが
ちょっと救いです。
by アテンザ23Z (2010-12-01 23:05) 

ご意見

観光の目玉として建設とした考えは、市外町外者のお考えであると思います。
清洲城は清洲町の町制100周年の記念として復元城ではなく、再建ということで建てられたものです。
ましてや、あなた様が記載されている『清州城』という表記の『清州』はいつの時代においても日本の清洲を指すものではなく韓国の『清州市』を指すものと思われます。
地元に縁のある者も多く目にする可能性のあるものに対し、配慮が必要かと思います。
by ご意見 (2010-12-27 22:45) 

アテンザ23Z

>ご意見さん
コメント頂きありがとうございます。
ご指摘の件について、当方見解を回答致します。

(1)「再建」天守について
史実と異なる新規再建は、城郭関係での一般的な分類に従えば、
「模擬天守」の分類に該当します。
バブルの頃までは、観光による経済的利益を重視して、
史実に基づかない模擬天守が、全国各地に作られました。
近年では、過去の観光重視、史実無視の姿勢への反省から、
こうした史実に基づかない模擬天守の再建は忌避される傾向にあります。
当方も同様な考えに基づいて、
模擬天守については否定的見解を持っております。
但し、これは特定の個人や市民を批判し糾弾するものではありません。

(2)「清洲城」の表記について
当ブログでの城郭名称の表記は、
現地表示(解説板、標柱など)、城郭関連文献、
行政HPでの表記などを参考にして、
総合的に判断して最も通用する名称
(もしくは歴史的に正しいとされる名称)を採用しています。
「清洲城」の名称は、
清須市の公式HPや現地での公園・城の名称も清洲となっており、
また古くは織田信長と同時代の第一級文献である信長公記でも
清洲城と記載されていると聞いています。
従って、「清洲城」の名称は公式に認められている名称であり、
当ブログでの表記も何ら問題ないと考えます。
by アテンザ23Z (2010-12-28 13:31) 

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