足利尊氏のこと [雑感]
石浜城の話の中で、尊氏再起の話が出たので、ちょっと尊氏について述べてみたい。
足利尊氏ほど、何度も大負けに負けていながら天下の権を握った人は、日本にはいないだろう。
(中国では漢の高祖劉邦がこれに近い)
最初の京都争奪戦では、
一旦入京したものの後醍醐天皇方の反抗に敗れて丹波経由で兵庫に逃れ、
更に兵庫でも敗れて、摩耶の山城に籠もって戦うかどうか討議されたほどであった。
また、弟の直義と争った観応の擾乱では、摂津打出浜の戦いで大敗し、
側近の高師直・師泰兄弟ら高氏一族を討ち取られてしまった。
その後、直義を鎌倉まで追撃した後、
関東の南朝勢力の蜂起によって生じた武蔵野合戦でやはり大敗。
鎌倉を放棄して石浜に逃れた。
以上のように、大きい負けだけでも3回もあるが、
その都度尊氏は不死鳥の様に蘇って最後の勝ちを掴んだのである。
それが特に水際立って素晴らしいのは、筑前多々良浜の合戦に至る経緯である。
尊氏は兵庫での大敗後、室泊で軍議を開き、
各地の足利方豪族に一族武将を配置して、他日の再起を期した。
この際の布陣の判断・決断は素晴らしく、その後山陽道に進撃した新田勢の進撃を食い止め、
反撃する態勢を整える時間を稼いだのである。
また、元弘没収地返付令を絶妙なタイミングで出すことによって多くの武家を味方に付け、
勝った後醍醐天皇方に奔る武家より、負けた尊氏方に奔る武士の方が多いという
異常事態まで現出した。
この点、民意に全く鈍感で、
空虚な論議のみを繰り返す現代日本の政治家の無能とは雲泥の差である。
そして自身は少数の兵を従えて筑紫に下り、少弐・大友らの鎮西諸豪を麾下に収めて、
多々良浜合戦の大逆転に繋げたのである。
兵庫で大敗してから再び京都へ向けて進撃するまで、その間わずか3ヶ月。
たったそれだけの間に、形勢を逆転させた手腕は並大抵のものではない。
巷では尊氏を評して、優柔不断とか、坊ちゃん育ちで周りのお膳立てで将軍になったとか、
あまり芳しいものではない。
しかし、いくら周囲の武将が優秀でも、
その進言の容れるべきものを容れ、捨てるべきものを捨てなければ、
こうも見事な逆転劇はありえないのである。
名将で、背水の陣の故事を生んだ韓信は、皇帝となった劉邦を評して
「兵に将たることはできないが、将に将たることができる。天下を取った由縁である。」
と述べたというが、それは尊氏にも当てはまるだろう。
尊氏の時には諸大名の勢力が強く、
室町幕府はその当初から有力守護大名による連合政権の色彩が強かった。
故に、将軍権力も微妙なバランスの上に立つ危ういものであり、
その統制力も弱く、前述のような尊氏評が多くなっている。
しかしその生涯の戦いを見れば、決して凡庸ではない、
傑出した武将であることがわかるのである。
足利尊氏ほど、何度も大負けに負けていながら天下の権を握った人は、日本にはいないだろう。
(中国では漢の高祖劉邦がこれに近い)
最初の京都争奪戦では、
一旦入京したものの後醍醐天皇方の反抗に敗れて丹波経由で兵庫に逃れ、
更に兵庫でも敗れて、摩耶の山城に籠もって戦うかどうか討議されたほどであった。
また、弟の直義と争った観応の擾乱では、摂津打出浜の戦いで大敗し、
側近の高師直・師泰兄弟ら高氏一族を討ち取られてしまった。
その後、直義を鎌倉まで追撃した後、
関東の南朝勢力の蜂起によって生じた武蔵野合戦でやはり大敗。
鎌倉を放棄して石浜に逃れた。
以上のように、大きい負けだけでも3回もあるが、
その都度尊氏は不死鳥の様に蘇って最後の勝ちを掴んだのである。
それが特に水際立って素晴らしいのは、筑前多々良浜の合戦に至る経緯である。
尊氏は兵庫での大敗後、室泊で軍議を開き、
各地の足利方豪族に一族武将を配置して、他日の再起を期した。
この際の布陣の判断・決断は素晴らしく、その後山陽道に進撃した新田勢の進撃を食い止め、
反撃する態勢を整える時間を稼いだのである。
また、元弘没収地返付令を絶妙なタイミングで出すことによって多くの武家を味方に付け、
勝った後醍醐天皇方に奔る武家より、負けた尊氏方に奔る武士の方が多いという
異常事態まで現出した。
この点、民意に全く鈍感で、
空虚な論議のみを繰り返す現代日本の政治家の無能とは雲泥の差である。
そして自身は少数の兵を従えて筑紫に下り、少弐・大友らの鎮西諸豪を麾下に収めて、
多々良浜合戦の大逆転に繋げたのである。
兵庫で大敗してから再び京都へ向けて進撃するまで、その間わずか3ヶ月。
たったそれだけの間に、形勢を逆転させた手腕は並大抵のものではない。
巷では尊氏を評して、優柔不断とか、坊ちゃん育ちで周りのお膳立てで将軍になったとか、
あまり芳しいものではない。
しかし、いくら周囲の武将が優秀でも、
その進言の容れるべきものを容れ、捨てるべきものを捨てなければ、
こうも見事な逆転劇はありえないのである。
名将で、背水の陣の故事を生んだ韓信は、皇帝となった劉邦を評して
「兵に将たることはできないが、将に将たることができる。天下を取った由縁である。」
と述べたというが、それは尊氏にも当てはまるだろう。
尊氏の時には諸大名の勢力が強く、
室町幕府はその当初から有力守護大名による連合政権の色彩が強かった。
故に、将軍権力も微妙なバランスの上に立つ危ういものであり、
その統制力も弱く、前述のような尊氏評が多くなっている。
しかしその生涯の戦いを見れば、決して凡庸ではない、
傑出した武将であることがわかるのである。
全く同感ですね。
尊氏は官僚型の直義と一体でその強さを発揮しお互いを補填し最高のコンビだったと思います。
兄弟が反目して直義を失った結果として、南朝方に詫びをいれるという前代未聞の行動に出たのは摩訶不思議ですが、困難な戦局を乗り切るバイタリティーは今の日本の政治家にも見習って欲しいものです。
by らんまる (2010-12-05 19:36)
>らんまるさん
尊氏・直義兄弟が最高のコンビだったという意見、全く同感です。
兄弟が共に有能だったからこそ、一門の勢力が二分されたのでしょう。
観応の擾乱の際に尊氏が南朝に降ったのは、
確かに理解に苦しむ部分もありますが、
尊氏・直義・南朝と勢力三分の中で、
相手より優位に立つ為にもう一つの勢力と結ぶという、
極めて現実的な選択だったと思います。
by アテンザ23Z (2010-12-06 01:17)