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若神子城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSC04584.JPG←大城で唯一残る遺構、薬研掘の跡
 若神子城は、甲斐武田氏の祖、新羅三郎義光が居を構えたと言われる城である。源義光は八幡太郎として知られる後三年の役の総大将源義家の弟で、苦戦する兄を助ける為奥州に下って戦功を挙げたと言われている。義光はその後甲斐守に任ぜられ、若神子に城を築いたと言われるが、確証はない。その後の歴史もはっきりしないが、佐久往還の要衝であったので、信玄の時代には情報や兵站の中継地点として活用されたと考えられる。1582年、武田氏が織田信長に滅ぼされ、そのわずか3ヵ月後に、その織田信長も本能寺の変で横死すると、旧武田領には政治権力の巨大な空白地帯が生まれ、この領土を巡って北条・徳川の2大勢力が争奪戦を繰り広げた。世に言う天正壬午の乱である。この際、北条氏直率いる北条方本軍はこの若神子城に本陣を置き、徳川家康の拠る新府城と対峙した。この時に若神子城は、北条方によって修築されたようである。戦いは、真田昌幸を北条方から離反させて北条勢の退路を脅かすことに成功した家康が有利に進め、3ヶ月の対陣の後、北条・徳川の間に和議が成立し、甲斐は徳川領となった。和議成立によって北条方は若神子城から撤退し、その後若神子城は廃城となったと考えられる。

 若神子城は、本城となる「大城」と、出城である「北城」「南城」の3つから成る複合城郭である。眼下に佐久往還の街道を扼する要衝で、麓には天然の外堀となる西川が流れ、城を築くには絶好の地勢であろう。現在大城は公園となっており、北条方によって築かれたと思われる薬研掘がわずかに残っているが、その他の土塁らしき遺構等は公園化に伴う改変も多く、はっきりしない。或いは徳川との講和成立後に破却したものかも知れない。一方、北城はほとんど藪化しており、だだっ広い平坦地の周囲に土塁が残っているだけである。土塁は良好に残っているが遺構はそれだけで、広い単郭の城の様である。大城を後方から支援する兵站拠点だったのかも知れない。いずれにしても、その名の割りにパッとしない遺構だった。尚、南城は遺構があまり無い様なので今回はパスした。
北城に残る土塁→DSC04633.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【大城】https://maps.gsi.go.jp/#16/35.794085/138.418894/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
    【北城】https://maps.gsi.go.jp/#16/35.797584/138.422048/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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