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小牧山城(愛知県小牧市) [古城めぐり(愛知)]

IMG_5228.JPG←小牧長久手合戦時の虎口跡
(2004年4月訪城、2017年10月再訪により記事修正)
 小牧山城は、織田信長が美濃侵攻の拠点として築いた平山城である。1563年に濃尾平野を一望できる要衝小牧山に城を築いた信長は、清洲城から居城を移して城下町を建設した。1567年、木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)の活躍などで美濃の戦国大名斉藤龍興の居城稲葉山城を落として美濃を攻略すると、信長は稲葉山城に居城を移して岐阜城と改称し、小牧山城は廃城となった。後、豊臣秀吉の時代の1584年に、小牧長久手の戦いで秀吉と対峙した徳川家康は、濃尾平野の真ん中に聳える独立丘陵の小牧山にいち早く本陣を構えた。この時家康は、信長の城跡を陣城とて大規模な改修を加えた。この要衝を押さえた家康は、秀吉勢の動きを手に取るように把握することができ、秀吉につけいる隙を与えなかった。家康を力で屈服させることに失敗した秀吉は、結局懐柔策で家康を取り込まざるを得ず、このことが家康に、豊臣政権内で他の諸大名と隔絶した大きな勢力を与えることとなった。

 小牧山城には、2004年に行っているが、その後継続的に発掘調査が続けられ、多数の石垣跡などが見つかっていることから13年ぶりに再訪した。以前は山頂付近まで樹木で覆われていたが、かなり伐採されて整備され、主郭周囲の石垣も発掘復元が現在進行形で進められている。現在の現地解説板では、城内は大きく5つのブロックに分けられ、主郭地区・西側曲輪地区・大手曲輪地区・西側谷地区・帯曲輪地区と呼称されている。中心になるのは勿論山頂部の主郭地区で、模擬天守の建つ主郭の周りを幾重にも腰曲輪が取り巻いている。主郭は、発掘調査の結果、内枡形の大手虎口も含めて総石垣であったことが判明しているが、現在は部分的にしか残っていない。主郭地区と西側曲輪地区の間は、堀切で分断されて、土橋と櫓台を設けた虎口が築かれている。私の過去の記事では「大規模な堀切や竪堀がほとんど見られず、中世城郭の遺構としてはそれほど技巧的な縄張ではない」としていたが、これは初級キャッスラーの全くの見誤りであった。この堀切は大きさは大したものではないが、屈曲しながら南に長い竪堀となって落ち、下方で90度曲がって横堀に変化し、土塁囲郭を取り囲んでいる。西側曲輪地区は2方向の尾根に伸びた段曲輪群で構成され、土塁や横堀で防御された曲輪も見られる。大手曲輪地区は、南から途中まで一直線に伸びる大手道の両側に広がる腰曲輪群で、下方には横堀を備えている。西側谷地区は、自然地形の谷戸を利用しており、最下段に土塁で囲まれた方形の「屋敷跡伝承地」がある。帯曲輪地区は、主に東麓一帯に置かれた曲輪群で、武家屋敷が置かれ、南東の土塁で囲まれた最も大きな曲輪は信長の居館跡と推測されている。帯曲輪地区は早くから発掘調査と整備復元が進められ、堀で区画された曲輪跡が復元されている。外周には土塁があるが、これは信長時代にはなく、小牧長久手の戦いの際に築かれたそうだ。またこの時築かれた虎口跡も復元されている。この他に主郭地区の腰曲輪北端に枡形虎口もあったようだが、見逃してしまった。とにかく以前来た時とは全くイメージが異なり、基本的には中世山城の造りだが近世城郭の萌芽が見えており、中世から近世への過渡期の城として見所が多い。
発掘復元中の主郭地区→IMG_0567.JPG
IMG_0598.JPG←主郭周囲に残る石垣
長く落ちる竪堀→IMG_0544.JPG
IMG_5226.JPG←帯曲輪部に復元された土塁と堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.292456/136.913466/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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ねじまき鳥

小牧長久手合戦時の虎口跡は堀のようですね。

by ねじまき鳥 (2010-12-16 22:34) 

アテンザ23Z

>ねじまき鳥さん
復元遺構を損傷させない為か、橋が架かっているので、
確かに堀跡のような感じになってしまってます。
by アテンザ23Z (2010-12-17 07:13) 

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