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石毛城(茨城県常総市) [古城めぐり(茨城)]

DSC05754.JPG←八幡神社周囲に残る土塁
 石毛城は、下総の豪族豊田氏の支城である。1532年豊田城主豊田四郎政親が豊田城の前衛として築城し、次子次郎政重を分封したと伝えられている。この頃、下総結城氏の重臣多賀谷氏の豊田氏領への侵攻が激しく、多賀谷氏への備えとして築城したものであった。政親は、小田城主小田氏治の妹を娶るなど、縁戚関係を結んで多賀谷氏への防戦に努めたが、家臣館武蔵守の拠る向石毛城を攻め落とされるなど多賀谷氏に次第に領土を侵食された。石毛城主石毛政重は勇猛で、兄治親を支えて度々多賀谷氏の軍勢を破り、返って多賀谷氏の本拠下妻へ攻め込むなど、豊田城の前衛としての責を善く果たした。しかし1575年に政重は急死し、そのわずか1ヵ月後、豊田治親は多賀谷氏の調略により家臣の飯見大膳に毒殺されて、豊田城は多賀谷氏に乗っ取られた。更に多賀谷勢は、重臣白井全洞を将として、豊田氏遺臣の拠る石毛城に攻め寄せた。豊田氏遺臣は頑強に抵抗したが大勢は既に決しており、7歳の幼君太郎正家の助命と逆臣飯見大膳の身柄引渡しを条件に、多賀谷氏に降伏した。以後、石毛城は多賀谷氏の支配下となったが、多賀谷氏家中の内紛によって、1585年に後顧の憂いを除くため破却された。

 石毛城は、現在市街化によりほぼ完全に湮滅し、ほとんどその縄張も明らかにすることができない。わずかに豊田氏遺臣によって城跡に創建されたという八幡神社周辺に土塁跡を残すだけである。しかし周辺には、御城会館・御城幼稚園など城跡であった頃を物語る名前が残っている。遺構は湮滅していても、その歴史を辿ると、小大名ながら豊田氏の遺臣が主家滅亡後もその遺徳を慕い忠節を尽したことに、感銘を受けずにはいられない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.120786/139.970627/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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