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豊田城(茨城県常総市) [古城めぐり(茨城)]

DSC05767.JPG←農地の中の豊田城址碑
 豊田城は、桓武平氏の一流で大掾氏の庶流、豊田氏の居城である。平重幹の第3子政幹は、下総豊田郡石毛荘に住して赤須四郎(石毛荒四郎)と称した。赤須四郎は前九年の役の際に、源頼義・義家父子に従って軍功を挙げ、豊田郷を下賜されて名を豊田四郎平将基と改め、豊田氏の祖となった。当初、向石毛城の地を本拠としたが、後に居城を移し、11代善基がこの地に新たに豊田城を築いて居を移したと言う。豊田氏は、南北朝期には当初南朝方に与して北畠親房を小田城関城に擁して戦ったが、後に北朝方の攻勢によって鎌倉府執事の一人高師冬と和して北朝方に付いた。戦国時代に入ると、佐竹・結城の大勢力の狭間で勢力維持に腐心したが次第に勢威を減退させ、特に結城氏重臣の多賀谷氏の激しい攻勢を受けることとなった。21代政親・22代治親の時には、多賀谷氏との攻防は数十度に及び、政親は小田氏治の妹を娶って縁戚関係を結び、多賀谷氏への防戦に努めた。しかし、1575年に治親の実弟であった猛将石毛政重が石毛城で急死すると、わずかその1ヵ月後に治親は多賀谷氏の調略により家臣飯見大膳に毒殺されて、豊田城は多賀谷氏に乗っ取られ、戦国大名豊田氏は滅亡した。以後、豊田城は多賀谷氏の支配するところとなったが、関ヶ原の合戦後の1601年、多賀谷氏が本拠の下妻城を去ると豊田城も廃城となった。

 豊田城は、小貝川の西岸に築かれた城で、かつては本城・中城・東城から成る規模の大きな城であったと言われるが、現在は小貝川の河川改修と耕地整理によって、遺構は完全に湮滅している。わずかに石碑と解説板が立つだけである。石碑は、小貝川堤防上と農地の中と2ヶ所建てられている。ちなみに石碑の建つ堤防下にL字状に屈曲した気になる土盛があるのだが、これは遺構じゃないんだろうなぁ・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.104890/139.998243/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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