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鶉古城(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSC06129.JPG←公園入口に残る土塁と空堀
 鶉古城は、南北朝時代に築かれた城である。1333年5月、上野より挙兵した新田義貞の鎌倉攻めによって瞬く間に鎌倉幕府は滅亡し、得宗北条高時以下北条一族は鎌倉東勝寺で自刃して果てた。一方、高時の弟で僧籍にあった慧性(北条泰家)は、鎌倉防衛の総大将として分倍河原で新田勢と交戦し、一度は勝利を得たものの体勢を立て直した新田勢に大敗して敗走した。幕府滅亡後、泰家は奥州に潜行したが、一説に北条氏家臣荒間朝春と共に逃れて来て築いたのが鶉古城だと言われている。(但し、上野の新田氏本拠に近く、本当にここに築城して籠もったのか、個人的には疑問も感じる。)後に泰家は、時興と改名して京に潜伏し、建武の新政転覆の謀議を巡らした。これは、中先代の乱の直接の導火線となり、引いては60年にも及ぶ南北朝動乱の契機となった大事件であった。一方、鶉古城は、応永年間(1394~1428年)には多々良四郎忠致の居城となった。更に時代が下って戦国時代には、館林城主の重臣で下野国小曽根郷八形城主の小曽根政義が、小田原北条氏の来攻に備え、兼帯で鶉古城を守備した。その後は館林城と共に北条氏の支配下に入った様だが、1590年の小田原の役の際、館林落城に伴い鶉古城も廃城となった。

 鶉古城は、多々良沼に西から突き出た半島状地形に築かれた城で、西の平野基部と2本の堀切で分断防御していたようである。現在は西側の外堀と土塁のみが残っている。土塁は高さ3m程で、空堀と共に約250mにわたって伸びている。しかし横矢は掛かっておらず一直線の形状で、古い城の形態を留めている。城内部は公園化されて改変を受けており、東側の堀は湮滅している様であるが水路として残っている可能性もあり、どこまで遺構が残っているか判別が難しい。いずれにしても三方を沼地で囲まれた要害であった。太平記の時代に築かれたと言う古い城は、現在は野鳥の楽園となって、水面に平和な時代を映し出している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.256603/139.491284/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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