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霊山城(福島県伊達市) [古城めぐり(福島)]

DSC00300.JPG←主郭
 現在、紅葉の名所として知られる霊山は、その昔、奥州南朝方の中心地であった。平安前期の859年に慈覚大師円仁が開創した山岳寺院霊山寺は、建武の新政の頃、奥州府の拠る寺院城郭、霊山城となった。建武の新政を始めた後醍醐天皇は、1333年10月、奥州を押さえる為に北畠顕家を陸奥守・鎮守府大将軍に任じ、わずか6歳の義良親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州に下向させた。顕家は大納言北畠親房の嫡子で、若干16歳の眉目秀麗な青年公卿であった。顕家は、国府多賀城に本拠を定め、父親房や奥州の豪族結城宗広・伊達行朝らがその補佐に当たった。1335年末に足利尊氏が鎌倉で新政から離反し、攻め寄せてきた新田義貞を伊豆竹之下で破って京都へ進撃すると、同年12月、顕家は義良親王を奉じて奥州軍を率いて征西し、尊氏を九州に追い落とした。翌2月に顕家は京都から奥州への帰途に就き、足利方に寝返った相馬らの奥州諸豪を討ち破って同年5月に多賀城に帰着した。しかし多賀城は北朝方の激しい攻勢に晒され、1337年正月、顕家は遂に多賀城を放棄して霊山に陸奥国府を移した。これは霊山が、奥州南朝方の柱石、伊達行朝の勢力圏にあったからでもあろう。しかし霊山城も北朝方に攻め囲まれる中、吉野に潜幸した後醍醐の度重なる要請によって、同年8月意を決した顕家は義良親王を奉じて再び西上の途に就いた。下野で北朝方の大族小山朝郷を降し、鎌倉に突入して杉本城で関東管領斯波家長を自刃に追い込み、そのまま驚くべき速さで東海道を進撃した。そして青野原の戦い(後の関ヶ原の地)で足利の精鋭軍と激突し、これを破った。しかし兵力を消耗した顕家は伊勢に転進し、奈良で体勢を立て直して京都を突こうとしたが、京都から下った高師直・師冬・今川・上杉らの北朝軍と般若坂で戦って敗れ、和泉堺浦で最後の決戦に挑んで敗死した。その戦没地は大阪の阿倍野と言われている。一方、顕家亡き後も霊山城では南北両軍の間で攻防が続き、顕家の死から10年後の1347年、藤田城落城直後に奥州管領吉良貞家率いる北朝軍重囲の下、遂に霊山寺と共に炎上、陥落したと言う。その後霊山城は、歴史の表舞台から姿を消した。

 霊山城は、主郭の周囲に国司館や廃堂跡が数多く残り、更にその外周にも物見岩や出城などが残っている。全体ではかなりの面積であるが、親王の御座所でもあり、国府と言うその政庁としての性格から、戦国期の実戦バリバリの山城と比べると自ずから遺構の趣も異なり、多くの堂宇・建物を配した平場だけで構成された山城だった様である。それでも主郭等には土塁や空堀が残っている。一方、国司沢や護摩壇などハイキングコースとしての見所も多く、山城遺構だけでなくその景色も楽しみたい城である。今回、満を持して紅葉真っ只中の好天の霊山を訪れることができた。朝6:30から登山開始し、一通り巡って降りてきたのは9:30だった。紅葉真っ盛りの時期であった為、朝まばらだった駐車場の人影は、降りてきた時には人だかりとなっていた。登るなら、人の少ない朝に限る。紅葉に彩られた絶好の眺望を、静かにゆっくりと楽しむことができるだろう。
有名な国司沢→DSC00247.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.770189/140.684330/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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