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播磨館(福島県桑折町) [古城めぐり(福島)]

DSC00454.JPG←堀切跡の道路
 播磨館は、伊達市の庶流桑折氏の居館である。伊達氏4代正依の庶兄左衛門蔵人親長を祖とし、桑折郡に住んで桑折氏を称した。南北朝時代の1338年には、桑折政長は伊達氏惣領の伊達行朝に背いて北朝方に降伏し、足利尊氏から知行地の半分を宛行われた。1542年の天文の乱の際には、その直接の発端となった稙宗3男実元の越後上杉氏入嗣について、桑折景長は中野宗時と共に伊達晴宗に阻止するよう進言した。1559年頃には、晴宗は奥州探題となり、桑折景長の嫡子貞長は守護代に補任されるなど重きを成した。1570年に伊達氏宿老中野宗時・牧野宗仲父子が伊達輝宗に叛して没落すると、その居城小松城は貞長に与えられた。貞長の子治部大輔宗長は、伊達輝宗・政宗2代に仕えて多くの戦功を挙げた。1591年に政宗が米沢城から岩出山城に移封されると、宗長の嫡子桑折政長も播磨館を去って江刺郡岩谷堂に移った。1593年、政長は朝鮮の役に出征したが朝鮮で病没した。政長には嗣子なく、姉婿の石母田景頼が桑折氏を継いだ。1615年、政宗の庶長子秀宗が伊予宇和島に10万石で立藩すると、景頼はその家老としてこれに従った。一方、その後の播磨館は、その北側に陣屋が置かれ御城米を貯蔵する蔵が立ち並び、庫場と呼ばれたと言う。

 播磨館は、河岸段丘の先端に築かれ、両側を侵食谷で削られた要害であったが、現在は宅地化され、遺構はほとんど湮滅している。しかしその地勢は健在で、要害地形が今でもよく分かる。東下の道路から館内に入る道は、主郭と台地基部を分断した堀切跡であろう。この道路を入ってくると、わずかに「史跡 播磨館跡」の標注が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.840089/140.519536/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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