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伊王野城(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSC06683.JPG←主郭北の大堀切
 伊王野城は、霞ヶ城とも言い、那須七騎の一、伊王野氏の居城である。伊王野氏は、那須頼資の次男資長が、1239年に伊王野に分知されたことに始まる。当初は平地に居館(伊王野館)を構え、那須氏の一族として重きを成し、那須宗家が上那須・下那須に分裂すると、上那須氏の重臣として活躍した。1487年頃に山城の伊王野城を築いて移ったと言う。この頃の伊王野氏は、大関・大田原両氏が台頭する前で、北那須の中心的な存在だった。1549年に宇都宮尚綱を返り討ちにした五月女坂合戦では、伊王野資宗の家臣鮎瀬弥五郎実光が敵の大将宇都宮尚綱を討ち取る大殊勲を挙げた。伊王野氏は、13000石もの領地を有する一大勢力であったが、1590年の小田原の役の際に、大田原・大関氏が豊臣秀吉を沼津まで迎えて従軍したのに対して、伊王野・芦野・千本・福原の各氏は小田原へ参陣しただけであったので、本領700石のみに大幅減封された。その後、再起を悲願として文禄の役・関山合戦に参陣したが、資重以降の当主が相継いで病没し、無嗣断絶となった。

 伊王野城は、『那須の戦国時代』に、「黒羽城烏山城の規模に匹敵するもので、この時期の伊王野氏の経済力の充実ぶりを、うかがわせる。」と記載されている通りの大規模な山城である。奈良川とその支流米沢に挟まれた南北に長く伸びる山地の南端に築かれた城で、北から北ノ郭・主郭・二ノ郭・三ノ郭と直線的に配置し、曲輪間を堀切で分断した構造となっている。いずれの曲輪も規模が大きく、堀切も大堀切と呼ぶに相応しいものである。特に主郭北側の堀切は、高低差15m、幅20m程に及ぶ巨大さで、圧巻である。この大堀切による分断は、一城別郭的な考えによるものにも感じられる。また主要な曲輪の外周には腰曲輪・横堀・物見台を設けており、烏山城に類似する縄張である。この横掘や土塁も大きなもので、昇り降りするのが一苦労である。これら主要部以外にも、三ノ郭のさらに南の尾根にも段曲輪が続いており、堀切・土塁も見られるが規模は小さい。全体としては小田原北条氏の城にも比肩する大きさで、これが那須氏の一家臣の城とは、那須氏の勢威の大きさを再認識させられた。

 ただ残念なことは、公園化されているのは三ノ郭だけで、二ノ郭・主郭は薮だらけで遺構の確認もままならない。また北ノ郭は山林伐採で重機で荒らされており、土塁や虎口も損壊を受けている。これほどの遺構をこれ以上破壊させるのは忍びない、何とかならないものだろうか。
主郭西側の横掘と土塁→DSC06676.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.963258/140.160420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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ノリパ

おお、五つ星ですね。それがしもいつか山に分け入って見たいです。
山の中に行かれてるアテンザ23Zさんの情熱はすごいです。
by ノリパ (2011-02-12 09:25) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
最近は山登りしたり、藪の中に突入したりしないと、城に行った気がしなくなってきました。完全に中毒みたいです(笑)。
by アテンザ23Z (2011-02-12 10:28) 

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