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藤田城(福島県国見町) [古城めぐり(福島)]

DSC00055.JPG←本丸搦め手口の張出し
 藤田城は、南北朝時代に奥州南朝方の拠点の一つとなった城である。築城年代や築城者は定かではなく、1189年の源頼朝の奥州征伐の折、阿津賀志山の合戦で頼朝が本営を置いた場所と伝わっている。そのことから、源氏宗家の拠った山ということで源宗山と呼ばれている。南北朝時代に入ると、陸奥国司・鎮守府大将軍の北畠顕家が、北朝方の攻勢によって国府多賀城を捨て霊山城に拠ると、藤田城はその出城として宇津峰城・川俣城と共に南朝方の有力拠点とされた。この時の藤田城主は、伊達行朝か藤田下野守と推測されている。しかし1347年、北朝方の奥州管領吉良貞家は、大軍で藤田城を激戦の末攻め落とし、一時的ではあるが奥州管領府の居城となって、霊山城攻撃の軍事拠点となった。室町時代になると、藤田城は伊達氏家臣の藤田氏の居城であったと考えられているが、藤田氏は一時断絶している上、再興したものの天文の乱では伊達稙宗方に付いて敗れ、藤田晴親は相馬に逃亡して、以後藤田城は廃城になったと思われる。

 藤田城は、本丸跡は大半が源宗山住宅団地となり、二ノ丸など周辺部も市街化されて、遺構の大半は湮滅している。しかし本丸西側は公園となっていて、井戸跡のほか搦め手口防御の横矢の張出し等は明瞭に残っている。日本城郭大系の図にある本丸外周の空堀は、現在遊歩道が敷かれて単なる腰曲輪にしか見えない。しかし全体に地勢はよく残っていて、周囲を望む高台に城があった事が今でも良くわかる。この地には城に由来する北小舘・南小舘・小舘などの地名が残る。

 ちなみに、本丸にある町営源宗山住宅団地は、高度成長期に作られた平屋の古い住宅が今でも並んでいて、非常に懐かしい匂いがした。私も子供の頃は、こんな家に住んでいたものだった。
二ノ丸の切岸→DSC00075.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.878868/140.544995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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