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石母田城(福島県国見町) [古城めぐり(福島)]

DSC00133.JPG←本郭の水堀
 石母田城は、伊達氏重臣の石母田氏の居城である。石母田氏は、元は甲斐武田氏の出自と言われ、石母田郷に住して石母田氏を称した。石母田城の築城時期は定かではないが、この城が歴史の表舞台に立つのは、伊達氏家中の大乱、天文の乱の時である。1542年、伊達稙宗は、対立していた嫡子晴宗によって桑折西山城に幽閉されたが、小梁川宗明に救出されて石母田城に入って稙宗党の拠点とした。翌年、稙宗は懸田城に移ったが、1544年に懸田城中で懸田氏家中に晴宗党の叛乱が起き、稙宗は再び石母田城に逃れた。この年、晴宗は稙宗の拠る石母田城を攻撃し、これを落城させた。稙宗は逃れて、八丁目城に移った。この時の石母田城主は不明であるが、乱後に稙宗方の石母田宮内少輔と彦三郎は失脚し、石母田光頼とその弟氏頼は封地を授かった。光頼は、弘治・永禄年間(1555~1570年)の頃、朝廷から従五位下安房守に叙せられ、将軍足利義輝から奥州守護代に任じられた。これは伊達家中でも破格の待遇と言ってよい。1564年、伊達輝宗と伊達一門衆の角田城主田手宗光が対立し、調停の為に石母田城に出向いた晴宗が、輝宗の攻撃を受けるという事件が起きた。その後の石母田城の歴史は定かではないが、1590年の豊臣秀吉による奥羽仕置によって、石母田城は廃城となった様である。翌年、伊達政宗が岩出山城に移封となると、石母田景頼もこれに従って荒山城に移ったと言う。1593年に景頼は政宗の命で桑折氏の名跡を継ぎ、1615年の宇和島藩立藩の際、筆頭家老として宇和島に移った。一方、石母田氏の名跡は、景頼の婿養子浦山景綱が継いで石母田宗頼と名乗り、幕末まで存続した。

 石母田城は、本郭・二ノ郭・三ノ郭を有する平城で、現在民家や果樹園となっているものの遺構は比較的良く残っている。主郭の東側には横矢掛を持った土塁が残り、その外側に水堀も残っている。主郭西側の土塁はかなり湮滅しているが、堀跡は道路となってその形状を良く留めている。主郭南虎口には馬出郭があったようだが、現在では湮滅している。二ノ丸は果樹園となっているが南西部に土塁と堀跡がわずかに残っている。外郭となる三ノ丸は、西側だけ土塁が良く残っており、その外側には堀跡が一段低い畑となって残っている。民家や畑となっている割には、城域や縄張がかなり明瞭で、特に外郭の遺構まではっきり残っているのは、かなり良好な遺構と言ってよいであろう。
三ノ郭の土塁と堀跡→DSC00103.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.889876/140.556153/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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