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阿津賀志山防塁 その1(福島県国見町) [古城めぐり(福島)]

DSC00190.JPG←厚樫山山麓部の防塁
 阿津賀志山防塁は、奥州藤原氏が源頼朝の奥州侵攻に備えて築いた防塁である。1189年、源頼朝は鎌倉幕府創立の総仕上げとして、平泉に覇を唱える奥州藤原氏を討伐した。いわゆる奥州合戦である。時に奥州平泉の盟主藤原氏3代秀衡は病没してこの世になく、嫡男泰衡が継いだばかりの隙を狙ったものでもあった。頼朝は全国の武士に動員をかけ、3手に別れて奥州へ侵攻した。中央は畠山重忠を先陣とし頼朝自ら率いる大手軍、右翼は千葉常胤・八田知家率いる東海道軍、左翼は比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍。吾妻鏡では総勢28万4千騎とするが、兵数を実数より多く言うのは軍記古来の鉄則なので、実際には5万騎程度ではなかったろうか。対する泰衡は、異母兄国衡を大将とし、厚樫山山麓から阿武隈川まで、二重の堀を構えた長大な三重の防塁を築き、平泉防御の第一線とした。これも兵力2万とされるが、実数は1万程度ではなかろうか。戦闘は8月7日より開始された。防塁の前面において激しい戦闘が繰り広げられ、数に勝る鎌倉勢が奥州勢を徐々に押し込み、一方、鎌倉方の小山朝光はわずかな手勢で厚樫山を大きく西北方に迂回して、国衡本陣に背後から奇襲をかけた。これによって浮き足立った奥州勢は一挙に瓦解し、国衡は出羽へ敗走の途中、畠山重忠・和田義盛の手によって討死し、後方にあって戦場を総覧していた泰衡は平泉に火をかけて北方へ逃走し、最後は郎党の裏切りに遭って殺害された。奥州勢を打ち破った頼朝は、そのまま軍を率いて北上し、陣ヶ岡に軍勢を集結させた。かつて宗祖源頼義が前九年の役の際に首実検を行った陣ヶ岡で、故事に倣って泰衡の首級を晒した。こうして奥州も平定され、武家政権が名実共に樹立された。

 阿津賀志山防塁は、現在国指定史跡になっており、大きく分けて4ヶ所にその遺構が残されている。防塁の基点は厚樫山の中腹にあり、山を登る車道の途中にその遺構を見ることができる。ここでの防塁は見た限り一つの堀と二重の土塁であるが、山を下って国道4号線付近では二重の堀と三重の土塁となっているようである。最も雄大な遺構を残しているのは下二重掘地区で、土塁の間に広大な堀が横たわっている。いずれの遺構も土塁はかなり削れ、堀はかなり埋まっているが、復元したらものすごい規模になるだろう。敗れたりとはいえ、突貫工事でこれだけの防御陣地を構築した奥州藤原氏の勢威がよく分かった。

 尚、国道4号線脇の高台の上に厚樫山故戦将士碑が建っている。果樹園の片隅にあり場所がわかりにくいので、付記しておく。
防塁始点→DSC00168.JPG
DSC00205.JPG←高橋地区の防塁
下二重掘地区の防塁→DSC00223.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【防塁始点】
    https://maps.gsi.go.jp/?ll=37.892043,140.564886&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
    【防塁 厚樫山山麓部】
    https://maps.gsi.go.jp/?ll=37.888114,140.56583&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
    【防塁 高橋地区】
    https://maps.gsi.go.jp/?ll=37.876971,140.572375&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
    【防塁 下二重掘地区】
    https://maps.gsi.go.jp/?ll=37.870958,140.575615&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
    【厚樫山故戦将士碑】
    https://maps.gsi.go.jp/?ll=37.890739,140.569435&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※後日の追加の訪問記はこちら


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