大堀山城(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]
←主郭南側の空堀と土塁
大堀山城は、歴史不詳の城館である。『新編武蔵国風土記稿』に記載される「下広谷村、古跡三ヶ所」の一つで、最も規模が大きく、かつ最も発達した縄張を持っている。大堀山城の東には中世の主要ルートである鎌倉街道が通り、西を通る県道は扇谷上杉氏の河越城と鉢形城、山内上杉氏の五十子陣を繋ぐ当時のルートと重なる為、主要交通路の交わる要衝を押さえる城だったと推定され、一説には両上杉氏の争った長享の乱の際に築かれたのではないかとも言われている。
大堀山城は、ほぼ方形の三重の土塁と堀を構えた平城で、南に開いた主郭虎口には土橋が掛かり、その近くには横矢掛りの折れが築かれている。また現地縄張図や日本城郭大系の縄張図に記載のない堀や土塁も周囲に散在し、殊に外郭北側の道路を挟んだ藪の中には、丸馬出らしい遺構も存在する。これほどの規模の城館を、漫然と藪の中に埋もれさせておくのは如何にも惜しいと思う。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.957053/139.433101/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
大堀山城は、歴史不詳の城館である。『新編武蔵国風土記稿』に記載される「下広谷村、古跡三ヶ所」の一つで、最も規模が大きく、かつ最も発達した縄張を持っている。大堀山城の東には中世の主要ルートである鎌倉街道が通り、西を通る県道は扇谷上杉氏の河越城と鉢形城、山内上杉氏の五十子陣を繋ぐ当時のルートと重なる為、主要交通路の交わる要衝を押さえる城だったと推定され、一説には両上杉氏の争った長享の乱の際に築かれたのではないかとも言われている。
大堀山城は、ほぼ方形の三重の土塁と堀を構えた平城で、南に開いた主郭虎口には土橋が掛かり、その近くには横矢掛りの折れが築かれている。また現地縄張図や日本城郭大系の縄張図に記載のない堀や土塁も周囲に散在し、殊に外郭北側の道路を挟んだ藪の中には、丸馬出らしい遺構も存在する。これほどの規模の城館を、漫然と藪の中に埋もれさせておくのは如何にも惜しいと思う。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.957053/139.433101/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平城
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