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清水八幡宮(埼玉県狭山市) [その他の史跡巡り]

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 清水八幡宮は、木曽義仲の嫡子、清水冠者義高の終焉の地である。義仲が上洛軍を起こすに当たり、源氏の嫡統たる源頼朝に異心無きを誓う為、わずか11歳の息子の義高を頼朝の娘婿と言う名目で、人質として鎌倉に送った。義高は好青年で、頼朝の妻北条政子からも好かれ、頼朝の幼い娘の大姫は幼い恋をしたという。しかし父義仲が没落し、頼朝の送った遠征軍に敗れて討たれると、義高の立場も極度に悪化した。大姫は義高の身を案じ、政子と協力して夜中ひそかに義高を女装させて屋敷から逃がした。義高の逃亡を知った頼朝は激怒し、すぐさま堀藤次を追っ手に差し向けた。そして、入間川のほとり、八丁の渡し付近で義高は追いつかれ、堀藤次の郎党藤内光澄に討たれた。享年わずかに12歳。義高の死を聞いた政子と大姫は、非常に嘆き悲しみ、政子は義高の終焉の地に八幡宮を建て、自ら参拝して義高の霊を慰めたと伝えられている。しかし壮麗な清水八幡宮も、1402年の大洪水によって跡形もなくなり、後年川原より石祠が発見され、現在の場所に再建されたと言う。

 清水冠者義高には、当初別段の興味を持っていなかったが、昨年CSで往年のNHK大河ドラマ「草燃える」の放映を見てこのエピソードを知り、是非にと思いお参りをした次第である。将来を嘱望されるべき好青年が、権力争いに巻き込まれて討たれたとは、誠に悲しむべきことである。

 なお、この話にはもう一つ悲しい出来事があって、義高を討ってその功を一旦は讃えられた藤内光澄は、その後、政子が夫頼朝を難詰した結果、なんと打首になってしまったのである。
 上司(主君)の命令に従っただけなのに、詰め腹を切らされて打首(即ち罪人扱い)となった光澄の一件は、権力者の理不尽さを思い知らされる。上は責任逃れをし、下が責任を取らされるのは、今も昔も同じことかと思うとやるせない思いが募る。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.857387/139.402975/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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らんまる

叛く者は一族郎党まで皆殺し・・・この鉄の掟の意味を知っていた頼朝は、自分自身が平清盛の継母(奥さんとも?)に助命嘆願され生き延び、結果として平家滅亡を行い仇討が完成しました。
義高を逃がせば、いつか復讐される事が自分の経験に裏打ちされていたのだと思います。義高の父である義仲の仇は源義朝であり、その血を受け継ぐ頼朝だった。
「殺るか、殺られるか」
秩序も正義も法律も無い時代の悲しさですね。
by らんまる (2011-03-07 23:22) 

アテンザ23Z

>らんまるさん
そうですね。
頼朝自身が、助命されたのに、
結局平家を滅ぼしましたから、
将来の復讐を恐れてその芽を摘んだのでしょうね。
世界中のどこでも同じですが、残酷な話です。
by アテンザ23Z (2011-03-08 19:51) 

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