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松井田城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01138.JPG←支尾根の畝状竪堀
 松井田城は、小田原北条氏の築いた巨大な山城である。元々は西上州の小豪族安中忠政が、甲斐の武田信玄の上州侵攻に備えて永禄年間初頭に築いたと言われている。しかし、1564年には信玄の激しい攻勢に晒されて松井田城は安中城と共に落城し、安中忠政は自刃、忠政の嫡子で安中城を守っていた忠成は信玄に降った。松井田城は武田氏の支城となり、市川国貞が城代となった。1582年に甲斐武田氏が織田信長に滅ぼされると、北条勢が一時松井田城に進駐したが、すぐに織田信長の派遣した滝川一益が碓氷峠を越えて着城したため撤収し、一益は家臣津田勝正を置いて上方との繋ぎとし、自身は厩橋城に入って上州経営の拠点とした。しかしわずか3ヶ月後、本能寺で信長が横死すると、神流川合戦で一益は北条勢に敗れて本領の伊勢へ敗走し、松井田城は北条勢の占拠するところとなった。それに引き続いて、政治権力の巨大な空白地帯となった旧武田領を巡って北条・徳川の2大勢力が争奪戦を繰り広げたが(天正壬午の乱)、徳川勢の優勢下で講和が成立し、碓氷峠以東が北条領となった。上州をほぼ併呑した北条氏は、碓氷峠を押える要衝の松井田城に重臣の大道寺駿河守政繁を置き、城を大改修・拡張した。1590年の小田原の役では、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの北国勢は碓氷峠を越えて松井田城を攻囲し、1ヶ月の籠城戦の後、城将大道寺政繁は降服して城を明け渡した。その後、松井田城は廃城となった。

 松井田城は、北条氏の山城(平山城は除く)としては、八王子城を除き、これまで私が見た中で最大の規模を持つ山城である。城域は広大で、並みの山城3つ分程の広さを有している。東西に連なる尾根上に曲輪を連ね、要所を堀切で分断する山城の典型的な縄張りとなっている。最高所に主郭を置き、大堀切を挟んで西側に馬出しと二ノ郭を配置している。二の郭の西側には連続横堀が構築され、西側からの侵入に備えている。その西側にも曲輪群が続いている。主郭には、現在神社が置かれている土壇があり、物見台か何かと思われる。主郭の東側にはいくつかの曲輪を挟んで、安中郭がある。ここが安中氏が築いた当初の松井田城の主郭と言われている。主郭から安中郭に至る途中の縄張りも巧みで、S字状の横堀やいくつもの堀切・竪堀、櫓台、桝形虎口、水の手曲輪など枚挙に暇がない。主郭などのある尾根から派生する支尾根にも多くの段曲輪を設け、こちらにも堀切や竪堀を設けている。一部には畝状竪堀もあり、巧みに防御を固めている。全体的に堀切等の防御構造は、北条氏の主要城郭としてはいずれも比較的規模が小さい。しかし巧みな縄張りといい城域の広大さといい、必見の山城であることは疑う余地が無い。
二ノ郭西側の連続横堀→DSC01221.JPG
DSC01273.JPG←S字状横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.322500/138.791944/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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らんまる

んーん、懐かしい!
松井田城は2時間以上も歩き回って(彷徨った?)壮大なスケールに感嘆した山城だったことを想い出しました(笑)
降伏した大道寺さんが豊臣方の北条支城への道案内と攻撃のアドバイスを行ったというのは皮肉でしたネ。
いつかまた訪れてみたい名城の一つに違いありません。
by らんまる (2011-03-21 14:15) 

アテンザ23Z

>らんまるさん
確かにこの城ほどの広さになると、彷徨うという方が合っている気がしますね。
大道寺さんは、結果として末節を汚してしまいました。個人的には、おそらく豊臣政権に対する主戦論と和平論の間の方針の軋轢で、このような北条氏重臣層の人心離反が進んだのではないかと推測しています。
いずれにしても惜しいことです。
by アテンザ23Z (2011-03-23 22:43) 

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