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富樫館(石川県野々市町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5746.JPG←野々市工大前駅付近の石碑
(2004年8月・2005年2月訪城)
 富樫館は、加賀守護職を務めた富樫氏の居館である。富樫氏は加賀斎藤氏の一族で、南北朝時代に富樫高家が足利尊氏に従って功績を挙げ、加賀守護となった。この高家が野々市に入部して居館を築いて守護所としたと言う。以後、富樫館は富樫氏歴代の居館となったが、富樫氏の加賀支配は幕政に左右される不安定なもので、しかも一族内に内訌を抱えていた為、一時は守護職を剥奪されたこともあった。室町後期の1464年に富樫政親が守護となった時には、南加賀のみを領する半国守護に過ぎなかった。応仁の乱の際には、政親とその弟幸千代の間で争いが起こり、政親は一向宗徒を味方に付けることによって幸千代を破り、加賀一国を支配下に置いた。しかしその後、一向宗が勢いを増すと、政親は一転して一向宗を弾圧し、一向一揆との闘いが始まった。そして1488年、20万もの数に膨れ上がった一向一揆は、守護富樫政親を高尾城に追い詰めて自害させるに至った。その後、加賀は一向宗の国となり、いわゆる「百姓の持ちたる国」となった。富樫館には、一向一揆によって加賀守護に擁立された冨樫泰高が入り、以後名目上の守護として存在した。1531年、一向一揆の内部抗争である享禄の錯乱の際に、加賀守護冨樫稙泰は小一揆(賀州三ヶ寺)に味方して敗れ、国を逐われた。以後は、富樫館は一向一揆の城塞となったと考えられるが、1580年に織田信長の軍勢が加賀を制圧すると、館は廃されて荒廃したと言う。

 富樫館は、中世加賀の歴史を語る上で重要な場所であるが、その遺構はすでに地上からは湮滅し、その往時の栄華を感じることはできない。現在は、北陸鉄道石川線の野々市工大前駅の南側に大きな石碑が建つほか、そこから南南西400mの住宅地の只中に堀跡が発掘された空き地があり、解説板が建っている。但し、堀は埋め戻されており、解説板の写真でしか見ることはできない。

 富樫氏は、中世加賀の重要な位置を占めているにもかかわらず、現在の石川県では近世以降の加賀前田氏ばかりが脚光を浴びている。特に金沢は加賀前田百万石一色である。金沢市への合併を拒んでいる野々市町だけが、富樫氏の歴史を伝えようと一生懸命になっている状況なのは、ちょっと残念である。歴史の中に無残に消えた富樫氏は、この館の遺構の現状に象徴されているようだ。
堀跡の眠る空き地→IMG_6846.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【石碑】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.532226/136.621717/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【堀跡の発掘現場】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.528760/136.620430/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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