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中世小田原城(神奈川県小田原市) [古城めぐり(神奈川)]

 小田原城には2つの顔がある。戦国時代に関東一円を支配した強大な戦国大名小田原北条氏の本城としての中世城郭の顔と、江戸時代以降に築かれた近世城郭としての顔である。その創建からの歴史は、近世小田原城の項に記載する。観光地としても有名な小田原城はあくまで近世小田原城であり、厳密な意味で戦国時代の小田原城とは異なる。戦国時代の中世小田原城は、現在復元天守のそびえる本丸の西側、八幡山と言われる丘陵上に主郭を置いていた。これを現在は八幡山古郭と呼んでいる。その周囲は空堀で取り囲まれ、その外側を二ノ丸・三ノ丸で取り巻いていた。一方、現在の近世小田原城は、かつての麓の居館部であったらしい。この中世小田原城は、戦国時代を通して北条氏の勢力拡張と共に膨張を続け、最終的には総延長9kmにも及ぶ大外郭(総構え)を持つ、国内最大の中世城郭となった。

 今回レンタサイクルを借りて、1日がかりでこの大外郭遺構を見て回った。市街化や耕地化により改変は進んでいるものの、部分的に遺構は良好に残り、近年では小田原市当局がこれらの遺構についても史跡として順次整備を進めているので、比較的確認がしやすい。

<三ノ丸遺構>
DSC04407.JPG
 住宅地の中に、部分的に中世小田原城の三ノ丸の切岸や土塁が残る。

<八幡山古郭東曲輪>
DSC04524.JPG
 JR東海道本線の東側の八幡山東斜面に東曲輪跡の公園がある。数年前にマンション建設計画が持ち上がったが有志の猛反対で建設中止となり、建設予定地で造成途中だった場所がそのまま公園化された。遺構はないが、少なくとも八幡山古郭の景観が損なわれずに済み、私も建設反対の署名運動で署名した甲斐があった。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.252085/139.151791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<八幡山古郭の土塁>
DSC04537.JPG←弓道場の脇の土塁
 小田原高校は、中世小田原城の本丸「八幡山古郭」跡に当たる。高校グラウンド東側の弓道場の脇に立派な土塁跡が残っている。今回、高校敷地内に入る許可を得て撮影した。また、高校内には高校敷地周辺の遺構配置が掲示されている。高校敷地の南側にも土塁が残る。この土塁の前の道は空堀跡だろう。
小田原高南側の土塁→DSC04608.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.252961/139.150032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
   https://maps.gsi.go.jp/#16/35.252769/139.147629/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<八幡山古郭周辺の遺構>
DSC05911.JPG←八幡山古郭南側の空堀
 小田原高校南側下方の藪の中に、八幡山古郭南側の空堀が残っている。また城の中枢部背後を防衛する八幡山大堀切は、現在は小田原高校西側の車道に変貌している。市営テニスコートは鍛冶曲輪に当たり、城山陸上競技場は御前曲輪に相当する。陸上競技場内には、発掘された敷石遺構が保存されている。何らかの祭祀に使われた場所だったらしい。尚、八幡山古郭周辺は周囲を急崖で囲まれた要害地形だったことがよくわかる。
八幡山大堀切跡→DSC04606.JPG
DSC04630.JPG←陸上競技場内の敷石遺構

 場所:【八幡山古郭南側の空堀】https://maps.gsi.go.jp/#16/35.252173/139.149410/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【八幡山大堀切】https://maps.gsi.go.jp/#16/35.253575/139.147264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【御前曲輪の敷石遺構】https://maps.gsi.go.jp/#16/35.254433/139.143981/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<早川口二重戸張>
DSC04557.JPG
 かなり削られて低くなっているものの、二重土塁が明瞭に残っている。土塁の外側は、内側より5m程低くなっており、天然の地形を利用して大外郭が構築されていることがわかる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.244340/139.149216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<板橋見附>
DSC04559.JPG
 大外郭の門跡。現在国道1号線が貫通し、遺構はない。交差点の名前に残っているだけである。交差点脇に解説板が建つ。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.246145/139.147650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<下二重外張>
DSC04568.JPG
 三ノ丸空堀と総構え空堀が二重になり、両方が接する部分に下二重外張と呼ばれる虎口があった。遺構はないが地形は明瞭で、付近に「鉄砲矢場」と書かれた石柱が立つ。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.249544/139.146363/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<上二重外張付近の空堀跡>
DSC04570.JPG
 遺構はないが、地形を見れば一目瞭然で、駐車場などの平場となって空堀跡が残っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.251314/139.144431/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<小峰台大堀切>
東堀→DSC04587.JPG
 大外郭の遺構では最も有名な遺構。大規模な空堀(堀切)が残っている。西側の台地からの侵入を3重堀切によって遮断しており、この方面に防御の重点を置いていたことが伺われる。最も綺麗に整備され、しかも遺構の損壊がないのは東堀である。見事に横矢が掛かっており、堀底には畝らしい跡もある。中掘はやはり横矢が掛かるが、車道となって改変されている。西堀は、南半分は湮滅しており、残っている遺構も未整備で藪の中にある。西堀を見るには果樹園を突っ切らなくてはならない。今回、果樹園にいた方に立入の許可をいただいて撮影した。これらの大堀切はよくその巨大さを謳われているが、それでも高低差たかだか10m程度であり、滝山城山中城の空堀の規模はこれを凌駕している。北条氏の本城の空堀の規模としてはやや物足りなさを感じるが、贅沢というものだろうか。
DSC04662.JPG←中堀の横矢掛り
薮に埋もれた西堀→DSC04690.JPG

 場所:【東堀】https://maps.gsi.go.jp/#16/35.252891/139.143552/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【中堀】https://maps.gsi.go.jp/#16/35.253102/139.142865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【西堀】https://maps.gsi.go.jp/#16/35.254276/139.141728/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<毒榎平>
DSC04593.JPG←毒榎平西端の土塁
 豊臣秀吉の北条討伐に備えた大外郭構築以前の小田原城の最西端に当たる。三ノ丸外郭に相当し、現在は城山公園となっている。郭内は緩斜面になっていて、西端に土塁が築かれ、更にその西側に小峰台の3重堀切がある。この地は主郭である八幡山古郭より高所にあり、物見も兼ねていたのではないだろうか。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.252786/139.144067/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<御鐘ノ台>
御鐘ノ台に残る堀切→DSC04679.JPG
 この地は大外郭の最西端に当たり、秀吉来攻に備えた大外郭構築の際、初めて城域に取り入れられた。地名はこの地に陣鐘が置かれたことに由来するという。現在は一面の畑であるが、一部に堀切や土塁らしい遺構が残る。崖下の空堀は、茶畑などに変貌している。また御鐘ノ台から関東学院大に向かう農道を降りると、大外郭の空堀が最も分かりやすく見える部分に出ることができる。
DSC09313.JPG←農道脇の空堀

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.253995/139.138058/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<稲荷森の総構え>
DSC04701.JPG
 竹林の中に空堀跡が見事に残っている。写真では分かりづらいのが残念!

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.256431/139.143466/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<山ノ神堀切>
DSC04710.JPG
 谷津丘陵を横断する堀切で、この堀切で丘陵を東西に分断していた。この堀切周辺にも、大外郭の空堀跡を明瞭に確認することができる。
DSC04709.JPG←山ノ神堀切付近の大外郭空堀

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.257237/139.145697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<城下張出>
城下張出の堀跡→DSC04735.JPG
 大外郭空堀に横矢を掛けるための張出である。住宅地の中に数段の平場と堀跡が残っている。最近小田原市が土地を買い取って整備し始めたらしい。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.261091/139.149646/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<谷津御鐘ノ台張出付近>
DSC04751.JPG
 大外郭の中でも、最大の高低差を持つ急崖の一つ。写真を見ていただければ判る通り、ビル5階分の高さで比高20mを越える。これではいくら秀吉の大軍でも、ただ傍観するしかないだろう。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.261249/139.154023/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<蓮上院土塁>
DSC04759.JPG
 平地部の大外郭遺構の中では、最も良好に残る土塁。この土塁の東側は水堀になっていたという。太平洋戦争中の着弾で、一部損壊している。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.255362/139.165589/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<江戸口見附>
DSC04769.JPG
 現在は国道1号線が通り、遺構はない。江戸時代には一里塚もあった。石碑が建てられている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.254293/139.167691/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<幸田門土塁>
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 中世小田原城の大手口となる幸田門脇の土塁が街中に残っている。近世小田原城の三ノ丸土塁に相当し、江戸時代にも使われた門である。上杉謙信と武田信玄が小田原城を攻囲した時には、ここで激しい攻防戦が繰り広げられたと言う。小田原郵便局の裏にある。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.252471/139.158229/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


 今回、中世小田原城の主要部と大外郭を回ってよくわかったが、小田原という場所は非常に起伏があり坂が多く、大外郭はこれらの地形をうまく利用して作られているのである。八幡山を中心とした城の主要部の周囲は谷戸地形となっていて、その外側に台地状の尾根が東西に伸びており、それを外郭として利用している。丁度、町全体を竪土塁と横堀・竪堀で囲んだような形状になっているのである。その外郭は、場所によっては最大高低差20mにも及ぶ断崖で、豊臣勢が力攻めを諦め長期攻囲戦を選んだ理由がよくわかる。この城に北条勢の主力の精兵数万がいたら、いくら20万を越える大軍といえど攻めきれないであろう。また、尾根伝いに大きな高低差をもって走る土塁と空堀は、倭城や伊予松山城の登り石垣、鴫山城の外郭と同じ構造・コンセプトで、その起源ではないだろうか?小田原の役の後、この戦に参加した武将がこぞって自分の持ち城に総構えを作り始めたというから、あながち的外れな見解ではないと思う。しかも小田原城は、海から山まで城塁で囲んで守りを固めた構造で、まさしく倭城の構造に近いのではないかと思う。それから、過去の発掘調査では大きな畝掘が発見されているが、小田原城の畝掘を一度でいいから見てみたいと思った。中世小田原城は、最後の戦国大名北条氏の名に恥じぬ、戦国最大最後の大城郭だった。坂道がきつく本当に疲れたが、大満足の1日となった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆


北条氏五代と小田原城 (人をあるく)

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  • 作者: 山口 博
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/07/30
  • メディア: 単行本


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コメント 6

ジュンクワ

おいでいただきうれしく思います。障子堀の復元・公開が本城小田原城のつとめだと思います。何時の日かかならずお目にかけたいと考えています。
by ジュンクワ (2011-05-06 18:24) 

アテンザ23Z

>ジュンクワさん
それは本当に素晴らしいチャレンジだと思います。
もし将来、小田原城の障子堀が復元公開されたら、
北条ファンとしてはお祝いでもしたい気分です。
頑張ってください。
by アテンザ23Z (2011-05-07 09:49) 

ねじまき鳥

すごい遺構ですね。是非とも長く保存してほしいですね。
by ねじまき鳥 (2011-05-11 20:44) 

アテンザ23Z

>ねじまき鳥さん
最近は小田原市がかなり遺構整備に乗り出してくれていますので、
一安心というところです。
by アテンザ23Z (2011-05-12 20:16) 

ノリパ

なるほど、中世小田原城は見所満載ですね。これは、いつ行くか
考え直さないといけないです。貴重な情報ありがとうございます。
by ノリパ (2011-05-15 18:09) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
全部回るのに丸1日かかりました。
おまけに坂が多いので一苦労です。
でも苦労が報われること請け合いですよ。
by アテンザ23Z (2011-05-15 22:21) 

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