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高麗山城(神奈川県大磯町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC08291.JPG←第3の堀切
 高麗山城は、伊勢宗瑞(北条早雲)が権現山合戦の際に取り立てたと言われる山城である。元々は永享の乱の際に、幕府から派遣された足利持氏討伐軍の上杉持房(上杉禅秀の子)が陣を構えたのが最初であると言う。1507年、越後守護代で実力者の長尾為景は主君の越後守護上杉房能を滅ぼし、これに怒った兄の関東管領山内上杉顕定は、1509年、為景討伐のため越後に侵攻した。しかし返り討ちにあって顕定は敗死してしまった。その報を聞いた伊勢宗瑞は好機到来と、1510年6月、山内上杉氏に降服していた扇谷上杉氏の家臣上田政盛を調略し、権現山城で反旗を翻させた。これが権現山合戦で、伊豆から小田原へと勢力を伸ばしてきた伊勢宗瑞が、いよいよ関東の大勢力山内・扇谷両上杉氏に挑戦したのである。この時宗瑞は上田氏に呼応し、小田原城を子の氏綱に任せて自身は松田・大道寺らの軍勢を率いて出立し、後詰めとして高麗寺山と住吉の故城を取立て籠ったと伝えられている。しかし新興勢力小田原北条氏の大勢力への最初の挑戦は、ものの見事に失敗し大敗に帰した。高麗山城はその後も狼煙台として北条氏に使われたらしい。1560年の上杉謙信の小田原攻めの際には、上杉方の陣が高麗山城に置かれたと言う。その後の歴史は定かではない。

 高麗山城の築かれた高麗山は、すぐ南の王城山城と同様、眼下に東海道を扼する要衝で、相模平野を一望できる絶好の陣場でもある。日本城郭大系では、高麗山山頂に城が構えられたとすることに疑問を呈しているが、地勢を考えれば、逆にここに城を築かないことは考えにくい。その点、HP「城と古戦場」に記載の記事に全く同意見である。高麗山城は比高150m程で、八俵山・大堂・東天照の3峰から成り、中央の大堂に主郭を置き、尾根続きの東西2峰に別郭を置いている。主郭にはかつては高麗権現社が置かれ、現在見られる土塁状の土盛りは、その時の改変によるものらしい。ここから西郭に至る尾根筋には3本の堀切が設けられて、尾根筋を分断している。但し第2の堀切はかなり分かりにくくなっている。城郭体系の筆者はこれらの堀切を自然地形と断じているが、見た限りかなり明瞭な遺構と考えられ、自然地形とはみなし難い。高麗山城を訪れた時の大系筆者が、よほど機嫌が悪かったのではないかと思ってしまう。また主郭の下方には腰曲輪らしき平場もいくつか残っており、それほど明瞭な遺構ではないが、ここに城があったことはほぼ間違いないだろう。

 尚、高麗山城の北麓にある山下長者屋敷を、城郭体系では宗瑞の取り立てた住吉要害ではないかと推測している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.322881/139.321092/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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