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岡崎城(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC08377.JPG←北出丸の外堀跡
 岡崎城は、相模平定を狙う伊勢宗瑞(北条早雲)が、三浦氏から攻め落とした城である。元々は鎌倉幕府創業の功臣で三浦氏の一族であった岡崎悪四郎義実の築いた城であった。(但し、居館の場所は、岡崎城より南方の方形囲郭群の付近であったと言われる。)義実は三浦義継の4男で、嫡子佐奈田与一義忠と共に源頼朝の挙兵に応じ、以後、頼朝に従って功績を挙げ、三浦の四棟梁(三浦・和田・佐原・岡崎)に数えられたが、晩年は窮乏したらしい。義実の死後、岡崎氏は和田の乱に加担して滅亡した。

 時代は下って室町時代になると、享徳の乱の最中の1455年頃、三浦時高は岡崎城を乗っ取って居城とした。1494年には、時高の養子三浦道寸は、義父時高を滅ぼして実力で家督を継承し、岡崎城を居城とした。この頃関東進出を図って小田原城を奪取した伊勢宗瑞は、相模平定を狙うも堅固な岡崎城に阻まれて、17年間に渡る睨み合いが続いた。しかし1512年8月、宗瑞は猛攻によりついに岡崎城を攻め落とした。道寸は、弟三浦道香を頼って住吉城に逃れ、最後は新井城で攻め滅ぼされた。落城後の岡崎城は、小田原北条氏の支城になったと考えられるが、その後の歴史は不明である。

 岡崎城は、無量寺周辺の低湿地帯に突き出た台地上に築かれた城で、無量寺の境内自体も曲輪の一つであった。城の主要部は無量寺のある無量寺郭と、その西隣に南北に連なった4つの曲輪(南郭・中郭・北郭・北出丸)で、それぞれの曲輪間を掘切で分断している。曲輪内は畑に変貌しているが、遺構は堀切・空堀などほぼ完存している。曲輪の周囲には袖曲輪が築かれて防御を固めており、南郭の南端は段々の腰曲輪群で構成されているようである。また周囲には虎口らしき跡も散見される。北出丸の外周にも畑となった外堀があるが、形状は明確である。その他にも無量寺郭外周にも空堀跡や、曲輪跡が見られ、かなり大きな城であったことが判る。外郭は宅地となって変貌しているが、周囲より高台となった地勢は明瞭である。なかなかすばらしい遺構を残した城である。
中郭~北郭間の堀切→DSC08411.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.378099/139.311801/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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