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亥山城(福井県大野市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6067.JPG←本丸土塁跡らしい土壇
(2004年9月訪城)
 亥山城は、土橋城とも言い、越前の戦国大名朝倉氏の大野郡司の歴代の居城である。元々は、南北朝時代に新田義貞麾下の猛将堀口貞満の一族堀口兵部大輔氏政によって築かれた。1338年に南朝方の総帥新田義貞が越前の灯明寺畷で討死し、翌39年、後醍醐天皇も吉野の行宮で崩御して、南朝方の先行きに暗雲が立ち込めることとなった。しかしそれを振り払うかの様に、義貞の弟脇屋義助は福井平野に於いて一斉に反転攻勢に出た。新田四天王の一人、畑六郎左衛門時能は三国湊城から、由良越前守光氏は西方寺城から、そして堀口氏政は亥山城から出立して諸城を落とし、多方面から一斉に越前黒丸城に拠る北朝方の斯波高経の軍勢に攻め掛かった。高経はこの攻勢に堪らず、黒丸城を放棄して加賀に落ち延びた。しかし高経はすぐに反転攻勢に出て越前府中を奪還し、堀口氏政は、畑時能の拠る鷹之巣城に籠って抗戦を続けたと、太平記に記されている。

 室町時代に入ると、越前守護斯波氏の庶流斯波義種が大野郡司となり、その家臣二宮氏が亥山城を居城とした。応仁の乱で東軍への寝返りによって越前守護代の地位に就いた朝倉孝景は、守護斯波義敏の籠る亥山城を攻囲し、義敏と二宮氏を越前から追放して実力で越前一国を切り取った。戦国朝倉氏は、一族を大野郡司として亥山城に置き、大野の経営を行った。朝倉氏最後の当主5代義景の時には、従兄弟の朝倉景鏡が大野郡司となって亥山城を居城としたが、1573年、義景が刀禰坂で織田信長に大敗すると、景鏡は義景を裏切って大野で自刃に追い込み、自身は信長から郡司職を安堵されて土橋に改姓し、引き続き亥山城を居城としたが、翌年一向一揆に滅ぼされた。その後、杉浦壱岐、原彦次郎長頼が亥山城に入ったが、1575年に金森長近が大野に入部して越前大野城を築くと、亥山城は廃城となった。

 亥山城は、東を流れる善導寺川を外堀とした平城だったと思われるが、現在は遺構の大半は市街化によって湮滅し、城跡には日吉神社が建てられて改変を受けており、往時の縄張りをはっきりと知ることはできない。ただ、境内西側には水堀跡が溜池となって残り、神社本殿のある高台は、かつての本丸土塁だったと思われる。また神社入口には「史跡 亥山城跡」の標柱が建ち、ここが紛れもない城跡であったことを現在に伝えている。遺構はわずかであるが、越前の歴史を語る上で外すことのできない重要な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.983528/136.493551/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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