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鷹取山烽火台(神奈川県相模原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09406.JPG←鷹取山頂上の鐘撞堂跡
 鷹取山烽火台は、甲斐武田氏が小田原北条氏に備えて築いた烽火台の一つである。この相模湖周辺はかつての甲相国境であり、武田氏と北条氏が各々警衛の烽火台を幾重にも築いた、厳重警戒地域であった。標高472mの鷹取山山上に築かれており、永禄・天正年間(1558~1591年)に武田氏がこの地を領した際に、小山田左兵衛尉信茂に命じて警鐘を鳴らす鐘撞堂を築かせたと言う。
 鷹取山烽火台へは、幾つかの登山ルートがあるようだが、最短なのは北尾根筋を登るルートだろう。県道521号線に「銀の館」という老人ホームがあり、そのすぐ近くに登り口がある。踏み跡がしっかりしているので迷うことはないだろう。ただ肝心の遺構はさっぱりで、頂上に僅かな平場があるだけで土塁も腰曲輪も確認することができない。頂上には「鷹取山烽火台跡」の標柱と、「こころに残る鐘」と書かれた釣鐘があるだけである。仕方ないので、鐘を一突きして下山した(笑)。武田の烽火台には、北条の様なしっかりした普請はない様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.634244/139.131836/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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ねじまき鳥

北条氏は臨時的な狼煙台だったのでしょうか。

by ねじまき鳥 (2011-07-18 11:40) 

アテンザ23Z

>ねじまき鳥さん
おそらく砦に持たせる機能の違いと、
兵卒に対する福利厚生面の違いによるのではないでしょうか?

北条は、物見だけではなく、
いざという時は兵を籠めて、
敵の背後を襲うぐらいのことは考えた烽火台で、
兵の駐屯にも支障ないように小屋掛けぐらいはこさえていたと思います。

一方、武田は、あくまで単なる物見で、
そこに籠るようなことは考えていなかったのではないかと想像しています。
また、農民に重税を掛けた武田ですから、
物見に小屋などいらない、と言う感じで全く作事を行わなかったのでは、
と想像しています。
by アテンザ23Z (2011-07-19 01:03) 

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