寺尾城(神奈川県横浜市鶴見区) [古城めぐり(神奈川)]
←殿山公園に残る竪堀と土塁
神奈川には川崎市内にも寺尾城があるが、この寺尾城は横浜市内のものである。寺尾城は、小田原北条氏の家臣諏訪氏の居城である。諏訪氏は、信濃の豪族諏訪氏の庶流で、1435年には鶴見の寺尾に居城していたと考えられている。戦国時代に入ると、諏訪三河守は北条氏の家臣となり、5代にわたって寺尾城を居城とし、200貫文を知行した。また諏訪氏は、小田原北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)の相模平定戦の当初からこれに従い、最初に功績を挙げた家柄ということで、相模衆14家の一家に加わる旗本として家中において重視された。1568年の武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が破綻し、翌69年に信玄が小田原城に遠征した際には、寺尾城主諏訪馬之助は駿河加勢の為、小田原城に出向いて不在中に、寺尾城は武田勢に攻められて廃城になったと言う。
寺尾城は、比高20m程の丘陵地に築かれた城で、かつては周囲を低湿地帯に囲まれた要害であったようだが、現在は城域のほとんどは市街化されて遺構の湮滅が進んでいる。しかし東側の殿山公園上部に竪堀と両側の土塁が明瞭に残っている。また、この竪堀の北側には小さな平場があり、曲輪跡であるらしい。この他、現地解説板の縄張図と見比べると、住宅地の中にも空堀・堀切・竪堀の名残りが道路などとなって残っていることが判る。尚、寺尾城のあった丘陵は殿山と呼ばれ、周囲には馬場谷など城にまつわる地名が残っている。馬場3丁目15-1の宅地の一角には、寺尾城址と書かれた立派な石碑も建っている。現在でもマンションが建てられるなど、地形の改変が進んでいるが、残ったわずかな遺構を大切に保存していってもらいたいものだ。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:【主郭】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.506990/139.652528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
【竪堀遺構】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.506186/139.654266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
神奈川には川崎市内にも寺尾城があるが、この寺尾城は横浜市内のものである。寺尾城は、小田原北条氏の家臣諏訪氏の居城である。諏訪氏は、信濃の豪族諏訪氏の庶流で、1435年には鶴見の寺尾に居城していたと考えられている。戦国時代に入ると、諏訪三河守は北条氏の家臣となり、5代にわたって寺尾城を居城とし、200貫文を知行した。また諏訪氏は、小田原北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)の相模平定戦の当初からこれに従い、最初に功績を挙げた家柄ということで、相模衆14家の一家に加わる旗本として家中において重視された。1568年の武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が破綻し、翌69年に信玄が小田原城に遠征した際には、寺尾城主諏訪馬之助は駿河加勢の為、小田原城に出向いて不在中に、寺尾城は武田勢に攻められて廃城になったと言う。
寺尾城は、比高20m程の丘陵地に築かれた城で、かつては周囲を低湿地帯に囲まれた要害であったようだが、現在は城域のほとんどは市街化されて遺構の湮滅が進んでいる。しかし東側の殿山公園上部に竪堀と両側の土塁が明瞭に残っている。また、この竪堀の北側には小さな平場があり、曲輪跡であるらしい。この他、現地解説板の縄張図と見比べると、住宅地の中にも空堀・堀切・竪堀の名残りが道路などとなって残っていることが判る。尚、寺尾城のあった丘陵は殿山と呼ばれ、周囲には馬場谷など城にまつわる地名が残っている。馬場3丁目15-1の宅地の一角には、寺尾城址と書かれた立派な石碑も建っている。現在でもマンションが建てられるなど、地形の改変が進んでいるが、残ったわずかな遺構を大切に保存していってもらいたいものだ。
北堀切跡の道路→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:【主郭】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.506990/139.652528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
【竪堀遺構】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.506186/139.654266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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