SSブログ

獅子ヶ谷城(神奈川県横浜市鶴見区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC10013.JPG←主郭周囲の状況
 獅子ヶ谷城は、獅子ヶ谷殿山とも呼ばれ、慶長年間(1596~1615年)に小田切美作守が屋敷を構えたとされる城である。小田切氏は元々甲斐武田氏に仕えていたが、信玄没後の武田氏衰亡の中で徳川家康に仕えるようになったと言う。小田原北条氏滅亡後に家康が関東に入部した後、小田切美作守光猶が館を構えたようである。その後の歴史は定かではない。
 獅子ヶ谷城は、比高30m程の緩やかな丘陵上に築かれている。現在は獅子ヶ谷市民の森となっていて公園化されているので、遺構ははっきりしない。頂上には広い平坦地が広がり、ここが主郭と考えられ、周囲の遊歩道は一段低くなっていて、空堀跡だった可能性がある。しかし遺構は不明瞭で、土塁らしいものもあるがはっきりしない。一方で、登山道の途中からは、段曲輪・腰曲輪らしい平場が散見され、割と明瞭な遺構なので、城があったことは間違いないのだろう。ただ、築かれた時代から考えると、その役割には議論の余地があるところだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.522325/139.640876/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世平山城
nice!(4)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 2

らんまる

こんばんわ。

小田切氏は確かに佐久の雁峰城の出自で戦国期は長野市の吉窪城を拠点とした小豪族と伝え聞きました。
駿河守幸長は、葛山城の攻防戦(第三次川中島合戦)の際に討死し、その子民部少輔は吉窪城に火を付け自落したといいます。
その後、武田の禄を食み存えたというのですが、貴殿の記事を読むと同族の流れに思えてなりません。

神奈川県に小田切氏の遺構があるとは、驚きであり信州野武士の逞しさを目の当たりにした思いになります(笑)

by らんまる (2011-08-03 21:29) 

アテンザ23Z

>らんまるさん
ご無沙汰しております。

信玄の激烈な佐久侵攻の中で、一族の一部が武田側に下ったものでしょうか。
武田家滅亡時に多くの武田家遺臣が徳川に下ったので、
小田切氏が徳川入部後の関東に入ったのも、自然な流れかもしれませんね。

非常に貴重な情報、ありがとうございます。勉強になりました。
by アテンザ23Z (2011-08-04 09:11) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント