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泉城(茨城県笠間市) [古城めぐり(茨城)]

DSC00836.JPG←主郭部の大堀切
 泉城は、鐘転山と呼ばれる標高218m、比高173mに築かれた山城である。南北朝時代から室町時代にかけてこの地方を支配していた宍戸氏の築いた城と考えられている。1442年の結城合戦で敗れた結城方の宍戸持里や筑波潤朝が泉城に籠って幕府方と再び戦い、潤朝の代官小倉四郎左衛門尉は幕府方の長尾弾正の軍勢に討たれたことが、当時の軍忠状によって知られている。しかし京都の幕府中央では、強権政治を推し進めていた5代将軍足利義教が赤松満祐に暗殺されると言う「嘉吉の乱」が勃発して混乱を極めた為、泉城合戦の帰趨は不明である。その後情勢が大きく変わって、結城合戦で危うく難を逃れた鎌倉公方足利持氏の遺児万寿王丸が、鎌倉公方足利成氏となって復帰すると、宍戸氏らも勢力を盛り返して関東管領上杉方と対立が続いた。この30年に及ぶ享徳の乱から戦国時代に時代が移りゆく中で、諸豪族の勢力が入れ替わり、常陸では佐竹氏の南進が強まり、宍戸氏らも呑み込まれていった。泉城も佐竹氏によって改修されたと考えられているが、その歴史は不明である。

 泉城は、大きく3つの区域に遺構が分散配置されている。まず山麓には、見事にクランクする空堀が数百mに渡って構築され、その両端には平場が広がっており、2つの根古屋(家臣団の居住地)部分を繋ぐ城内通路を兼ねていたのかも知れない。またクランクしながら山裾に延々と続く空堀は下野多気山城のものに類似した遺構で、佐竹氏による改修と考えられているそうだ。次に東側の山腹には、平坦な平場3段が広がり、上段・中段部は山林化しているが削平されていることが明瞭で、一部に土塁を伴っている。最上部には土塁状の土壇があり、その背後が窪んでいることから、背後を遮断する堀切だったようである。最下段には現在、無線中継所が置かれており、その周囲に帯曲輪を伴っている。3つ目の遺構群は山上部で、ここの遺構は大きく2つのブロックに分かれている。最も南に当たる主郭エリアは採石のため東側に破壊を受けており、平場は残っているものの全体でどの程度の規模の曲輪であったかはわからない。主郭は北側に腰曲輪を2段ほど伴って、その先の尾根筋を大堀切で分断しているので、独立性の高い主郭配置であったと思われる。その北西に伸びる尾根に沿って曲輪が続くが、ほとんど自然地形で明確な曲輪の体を成していない。ただ途中に土塁と埋もれた小堀切が2つほどあるので、馬場の様な繋ぎの曲輪であったのかも知れない。その先の北端にある北郭が山上部で最も普請されている曲輪で、南側全周を土塁で防御している。土塁の途中には虎口も確認できる。泉城は全体的に遺構が散漫で、全容の掴みにくい城である。戦国期にはあまり重視されていなかったのかも知れない。
山裾の屈曲する空堀→DSC00769.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.278289/140.254973/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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