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蒔田城(神奈川県横浜市南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC01725.JPG←腰曲輪らしき平場
 蒔田城は、足利氏に連なる名族、武蔵吉良氏の居城である。吉良氏は、御一家衆として鎌倉公方足利氏より格別の待遇を受け、その家格故に扇谷上杉氏家宰太田道灌などからも「吉良殿様」と尊称された。その事績は、世田谷城の項に記載する。吉良氏は、世田谷と蒔田に所領を持ち、それぞれ世田谷御所、蒔田御所と尊称され、当初は世田谷城を本城としていた。小田原北条氏が武蔵に勢力を伸ばすと、吉良氏と姻戚関係を結ぶことによって支配下に置くと共に自身の家格を高めることに利用した。それ故に吉良氏は、北条氏からは圧力と同時に格別の保護を受けた。そして北条氏綱の3女崎姫(即ち氏康の妹)を娶った吉良頼康は、ある時期から蒔田城に本城を移した様である。その子氏朝も北条氏康の娘香林院を娶っていた。1569年、甲斐の武田信玄が小田原城に侵攻した際には、頼康は小田原に在城し、蒔田城には御台所崎姫のほか僅かな兵しかいなかった為、青木城主多目周防守は「蒔田殿の御所を焼かせては甲斐なき命生きて詮無し」とて、自らの城を捨てて軽部豊前守らと共に蒔田城を守護したと伝えられている。それ程の厚遇を北条氏から受けていた様である。1590年に北条氏が滅亡すると、蒔田城も廃城になったと思われる。しかし武蔵吉良氏は命脈を保ち、蒔田氏と改称して江戸時代にも高家として存続した。

 蒔田城は、現在は横浜英和女子学院の敷地となっており、遺構はほとんど湮滅している。しかし台形状に張り出した比高30m程の要害地形は現在でも健在で、上からは周囲を一望できる。学校周囲をめぐる車道は、学校敷地より一段低いことから空堀跡だったと考えられる。また道路の外周に、腰曲輪らしい平場も数ヶ所見ることができる。蒔田城北麓にある蒔田の森公園付近は、かつての馬場跡で、馬場谷などの地名が残っていたと言う。主郭が女子高なので、例によってカメラを持ってうろつくのは注意を要する。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.427001/139.609891/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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