井上成美邸 [太平洋戦争]
井上成美は、帝国海軍の大将で、
海軍の歴史の最後に、米内さんの強い意向で大将に昇進することになった経緯から、
「最後の海軍大将」として知られている。
一部の識者からは「海軍きっての知性」と讃えられ、
海軍部内において、戦前は一命を賭して対米戦争反対を公言し続けた。
国内で日独伊三国同盟締結の機運が盛り上がっていたときには、
海相の米内光政、海軍次官の山本五十六と強力なタッグを組み、
軍務局長として徹底的に同盟締結に反対した。
太平洋戦争開戦の約1年前に「新軍備計画論」と題して
時の海軍大臣及川古志郎に提出した建白書は、
戦史研究家の間では有名である。
その中で、このままの戦備で対米戦争に突入した場合、
「アメリカは、(1)日本国全土の占領が可能 (2)首都の占領も可能
(3)作戦軍(陸海軍)の殲滅も可能」
と断じ、航空戦術の重要性など、新兵器による戦術の変革と革新を説く程の
高い見識を有していた。
これらの指摘が、実際の太平洋を舞台とした戦場においてそのまま現実となったことは、
広く知られている通りである。
またサイパン陥落後に東条内閣が倒され、
その後成立した小磯米内連立内閣では、
米内さんの直談判で海軍次官に据えられた。
次官となった井上さんは、
約1ヶ月の戦況収集の後、密かに終戦の内部工作を始めるなど、
日本が終戦を迎えるに当たっての影の尽力も大きかった。
その終戦工作の効果には疑問な点も多いとされるが、
広島長崎への原爆投下とそれに続くソ連の参戦の後、
日本が速やかにポツダム宣言受諾、無条件降伏へと進むことができたのは、
一つにはこうした下工作があってのことだったろうと思う。
ただ井上さんは常に冷静合理的で、感情的、楽観的判断を排除したため、
その俊英さの一方で厳しい態度と物言いは、周りに敵を作りやすく、
一部の人達からの強い批判にさらされることも多かった。
しかし、「どのような反批判があるにせよ」(阿川弘之著「井上成美」の一節)
井上さんの為したことの見事さとその予見の正しさは、
日本の近代史の中に、燦然とした光を放つものであろう。
私がこうした影の戦史を知ったのは、
もう二十数年も前になる。
そして、今から16~7年前に、前述の「井上成美」の記述を頼りに
横須賀市長井の港町を訪れたが、
当時はまだネットが全然普及していなかった時代で、
情報を集める手段がなくて正確な場所がわからず、
「この辺かなぁ」という程度で、行き着くことが出来なかった。
今回、三浦半島の城巡りをする途中、
ようやく訪れることができた。
今は井上成美記念館となっており、事前予約で内部の見学もできるそうだが、
今回は外回りを拝見するだけにした。
玄関脇の地面に立っているコンクリート杭には「海軍」の文字があり、
今でも海軍の香りが漂っていた。
玄関を入った廊下には、かつての古写真が飾られているのが、
ガラス越しに見えた。
それにしても、海軍大将という高位に登った人の邸宅とは思えない程の質素さであった。
平屋で、2階はなく、ダイニングを合わせても3つほどの部屋しかなかったであろう。
現代のサラリーマンの家の方がよほど広く、
当時の日本の経済水準を知る思いである。
しかし、ようやく二十数年の思いを達することができた。
当日は、天気も良い初春の陽気で、
海べりの断崖に建つ古ぼけた白い洋館風の邸宅が、輝いて見えた。
この場所に立った時、無限の感慨を起こさずにはいられなかった。
私の実家がある愛川町から横須賀まで、横須賀水道という、旧海軍が引いた水道路があります。
私が測量士をしていた頃は、まだ海軍と書いてある用地杭が残っているところがありました。
by evergreen (2011-09-11 00:49)
>evergreenさん
けっこう海軍の杭が残っているのですね。
普通の人は誰も気づかないで、通り過ぎているんでしょうね。
by アテンザ23Z (2011-09-11 20:42)