八王子城 その2(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]
八王子城には2年前に訪れているが、主郭周辺の段曲輪群や大天守付近の遺構など、まだ多くの遺構を見逃していたので、再訪した。
<登城門付近の石垣>
管理棟の裏側から金子曲輪方面に登っていく道に登城門跡があり、その近くに小規模な石垣が残っている。
<主郭北西側段曲輪群>
主郭北西側の尾根に、10段程もある段曲輪群がある。
<大天守に至る尾根筋側方の竪堀>
主城部から大天守に至る途中の尾根の西斜面には、二重竪堀が穿たれている。またこの尾根筋には石塁が築かれた跡があり、竪堀同様南側斜面に石垣も残っている。二重竪堀の上の尾根上は削平されて、小さな曲輪が築かれている。竪堀については、何故こんなところに竪堀を穿つ必要があるのか最初の訪城時にはわからなかったが、今回、大天守付近の遺構を見て回って初めてその意図が理解できた。これについては後述する。
<大天守裏大堀切の石の穴>
大天守裏には深さ15m程の大堀切があるが、堀切に面した石にはノミで人為的に削った穴が開いている。灯明を灯したとか、仏像を祀ったとか言われている。
<大天守北東尾根の曲輪群と石垣>
大天守から奥棚沢水平道に至る北東に伸びる尾根には、段曲輪群が築かれている。またこの北東の尾根筋にも、西側斜面に石垣が残り、石塁が築かれた跡も残っている。
<柵門台段曲輪群の石垣>
柵門台の下には尾根に沿って段曲輪群が築かれているが、この側面に城中で最も見事なものの一つである石垣が残っている。この石垣は、斜面の曲がりに沿って湾曲して積まれている。
【大天守付近の遺構についての考察】
大天守北東尾根の石垣は、明らかに段曲輪の側面ではなく「尾根」の西側に築かれている。大天守から主城部に伸びる南東尾根も、尾根の西側に崩れかけた石塁が残っている。これはまさしく伊予松山城の登り石垣と同じコンセプトであり、史上初の登り石垣である可能性がある。この尾根側方の石垣で、西側山塊からの敵の侵攻を遮断している事が判る。ここで、北東尾根は尾根筋が一直線状に長いため防衛線も長く、敵の侵攻を食い止めるのに問題はないが、南東尾根は途中で北東に曲がっており、西側に向いた部分が短いので、敵の侵攻を食い止める十分な防御線の長さが確保できていない。ここで前述の二重竪堀が効いてくる。即ち、二重竪堀で、敵兵が南東側から北東側の斜面へ回りこむのを阻害しているのである。
これらをまとめると、大天守を中心に南北に連なる尾根の西側に頑強な防衛線が敷かれていることが判る。つまりは、小仏峠越えや和田峠越えでの甲斐からの侵攻に対する備えが想定されているのであり、八王子城はあくまで甲斐武田に対する防衛拠点として築かれていたのであろう。一方で、主城から北東方向にあった搦手口は、陣馬街道口を押さえる浄福寺城があった故に比較的防御構造が弱く、直接中枢部まで敵兵が侵入しやすい欠陥縄張りであった様だ。豊臣勢の侵攻の際、松井田城で降服した大道寺政繁が先兵となって搦手口から侵攻し、大城郭八王子城がわずか1日で陥ちた理由はそのせいかも知れない。
<登城門付近の石垣>
管理棟の裏側から金子曲輪方面に登っていく道に登城門跡があり、その近くに小規模な石垣が残っている。
<主郭北西側段曲輪群>
主郭北西側の尾根に、10段程もある段曲輪群がある。
<大天守に至る尾根筋側方の竪堀>
主城部から大天守に至る途中の尾根の西斜面には、二重竪堀が穿たれている。またこの尾根筋には石塁が築かれた跡があり、竪堀同様南側斜面に石垣も残っている。二重竪堀の上の尾根上は削平されて、小さな曲輪が築かれている。竪堀については、何故こんなところに竪堀を穿つ必要があるのか最初の訪城時にはわからなかったが、今回、大天守付近の遺構を見て回って初めてその意図が理解できた。これについては後述する。
<大天守裏大堀切の石の穴>
大天守裏には深さ15m程の大堀切があるが、堀切に面した石にはノミで人為的に削った穴が開いている。灯明を灯したとか、仏像を祀ったとか言われている。
<大天守北東尾根の曲輪群と石垣>
大天守から奥棚沢水平道に至る北東に伸びる尾根には、段曲輪群が築かれている。またこの北東の尾根筋にも、西側斜面に石垣が残り、石塁が築かれた跡も残っている。
<柵門台段曲輪群の石垣>
柵門台の下には尾根に沿って段曲輪群が築かれているが、この側面に城中で最も見事なものの一つである石垣が残っている。この石垣は、斜面の曲がりに沿って湾曲して積まれている。
【大天守付近の遺構についての考察】
大天守北東尾根の石垣は、明らかに段曲輪の側面ではなく「尾根」の西側に築かれている。大天守から主城部に伸びる南東尾根も、尾根の西側に崩れかけた石塁が残っている。これはまさしく伊予松山城の登り石垣と同じコンセプトであり、史上初の登り石垣である可能性がある。この尾根側方の石垣で、西側山塊からの敵の侵攻を遮断している事が判る。ここで、北東尾根は尾根筋が一直線状に長いため防衛線も長く、敵の侵攻を食い止めるのに問題はないが、南東尾根は途中で北東に曲がっており、西側に向いた部分が短いので、敵の侵攻を食い止める十分な防御線の長さが確保できていない。ここで前述の二重竪堀が効いてくる。即ち、二重竪堀で、敵兵が南東側から北東側の斜面へ回りこむのを阻害しているのである。
これらをまとめると、大天守を中心に南北に連なる尾根の西側に頑強な防衛線が敷かれていることが判る。つまりは、小仏峠越えや和田峠越えでの甲斐からの侵攻に対する備えが想定されているのであり、八王子城はあくまで甲斐武田に対する防衛拠点として築かれていたのであろう。一方で、主城から北東方向にあった搦手口は、陣馬街道口を押さえる浄福寺城があった故に比較的防御構造が弱く、直接中枢部まで敵兵が侵入しやすい欠陥縄張りであった様だ。豊臣勢の侵攻の際、松井田城で降服した大道寺政繁が先兵となって搦手口から侵攻し、大城郭八王子城がわずか1日で陥ちた理由はそのせいかも知れない。
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