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村岡山城(福井県勝山市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6206.JPG←主郭空堀の横矢
(2004年9月訪城)
 村岡山城は、勝山盆地を望む独立峰、標高301m、比高141mの御立山山上に築かれた山城である。1574年、平泉寺と対立していた七山家を中心とする一向一揆勢は、村岡山に一夜で城を築き上げた。これが村岡山城である。平泉寺はすぐに村岡山城を攻めたが、逆に攻撃されて平泉寺全山を焼き払われた。この勝利によって、村岡山は「勝山」と名付けられ、今の勝山の地名につながっていると言う。1575年に織田信長が越前一向一揆を殲滅すると、重臣の柴田勝家に越前を与え、勝家は柴田義宜を村岡山城に入れて勝山地方を統治させた。しかし義宜は一揆の残党に敗れて討ち死にし、勝家は養子の柴田勝安を村岡山城へ入れた。勝安は一揆残党を鎮圧に成功すると、1580年に新たに勝山城を築いて移り、村岡山城は廃城となった。

 村岡山城には、西麓の村岡神社脇から登山道が整備されていて、夏場でも容易に登ることができる。山頂にほぼ方形の主郭を置き、その周囲を土塁と空堀で囲繞して防御し、その回りに広いニノ郭が配置されている。主郭の空堀には一部に横矢が掛かり、ニノ郭と主郭は土橋で連結している。ニノ郭にも東西に土塁が築かれ、東側は更に虎口と馬出しが設けられており、その先の斜面には畝状竪堀もあるようだが、この時は確認しなかった。またニノ郭の西側にも堀切を介して数段の曲輪が連なっているようである。明らかに専門の軍事集団が築いた遺構であり、柴田氏が入城してからかなり手を加えて仕立て直したものであろう。とにかく、この城に行ったときは戌山城でのすさまじいクモ軍団との格闘で気力が萎えており、村岡山城ではあまり奥まで探索できなかった。結構遺構を見逃してしまっている部分も多く、今から思えば残念である。
村岡山城遠望→IMG_6196.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.075708/136.507884/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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