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尾高城(鳥取県米子市) [古城めぐり(鳥取)]

DSC05625.JPG←本丸~二ノ丸間の堀切
 尾高城は、小鷹泉山城とも言い、西伯耆の軍事上の中心であった城である。交通の要地にあったため、鎌倉時代から城が築かれていたらしい。はっきりと歴史に現れるのは、室町時代に伯耆守護山名氏の支配下で、豪族の行松氏の居城であった。1524年に月山富田城主尼子経久が伯耆に侵攻すると、尾高城も尼子氏の手に帰し、城主行松正盛は毛利元就の元に逃れた。尼子氏支配時代は吉田光倫が城主であったが、1562年に毛利元就が尼子氏の有力支城白鹿城を攻撃すると、行松正盛は流浪38年目にして尾高城を奪還した。その後は毛利氏の支配下となり、奪還から間もなく正盛が死ぬと、杉原播磨守盛重が伯耆経略の重責を担って尾高城に入った。1571年には、第1次尼子氏再興運動に敗れて毛利方に捕らえられた山中鹿介幸盛が、腹痛を偽って尾高城の厠から脱出した逸話が知られている。約20年の杉原氏時代の後は、吉川元春(元就の次男)の居城となった。しかし1600年の関ヶ原合戦で毛利氏は敗北してこの地を去り、尾高城は米子に入部した中村一忠の持ち城となった。中村氏は前米子城主の吉川広家が築城途中であった為、米子城が完成するまでの一時期、尾高城に在城したらしい。米子城が完成すると、尾高城の石垣などは取り壊されて廃城となった。

 尾高城は、伯耆の主峰大山の遥か山裾の台地先端に築かれた城で、比高20m程の段丘上に位置している。想像以上に広大な城域で、遺構も多少改変されているもののよく残っている。北西部お先端から二ノ丸・本丸を配置し、大きな堀切を挟んで南に中ノ丸を置き、その南側にも馬出しと思われる小郭を配置している。一方、東側には谷戸を挟んで蔵屋敷・方形館・南大首郭等を置いている。更に堀跡の道路を挟んで南側には天神丸があり、ここには現在「シャトーおだか」というホテルが建てられている。方形館などは公園化しているが、あまり大きな改変はされていないようである。手付かずなのは本丸と二ノ丸で、山林化している分、遺構は手付かずで残っている。本丸外周は土塁で防御され、二ノ丸との間は広幅の堀切で分断している。この広い堀切は水の手曲輪でもあったらしい。この堀切沿いの切岸や本丸土塁には一部に石積みが残っており、この城に石垣が取り入れられていたことを物語っている。西伯耆の拠点城郭であっただけあって、規模が大きく素晴らしい。このまま貴重な遺構を後世に伝えてもらいたい。
切岸に残る石積み→DSC05631.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.421458/133.411156/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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