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名和の庄(鳥取県大山町) [その他の史跡巡り]

DSC05770.JPG←元弘帝御着船碑
 名和の庄は、建武の新政で三木一草と謳われた名和長年の本拠地である。長年はこの地で海運業などで財を成していた土豪と考えられているが、その出自ははっきりしない。村上源氏の裔を称したとも言うが、出自をよく見せるためのよくある創作であろう。

 1333年、配流地の隠岐を脱出した後醍醐天皇は、小舟で海を渡り伯耆国名和湊にたどり着いた。ここでこの地の土豪名和又太郎長年を頼り、長年はこれに応じ、幕府軍に対抗するため、大山の支峰で峻険な船上山に帝を奉じて立て籠った。名和軍は寡勢ながらも天険の要害に拠って善戦し、幕府軍が攻めあぐねている間に、幕命により船上山攻めの為に西上していた足利高氏(後の尊氏)が丹波篠村で倒幕に挙兵し、わずか数日にして鎌倉幕府の出先機関、京都六波羅探題を滅ぼした。ほぼ同じ頃、関東では新田義貞が挙兵して鎌倉を攻略し、ここに鎌倉幕府は滅んだ。京都に還幸した帝は建武の新政を開始し、倒幕に大功のあった楠正成・結親光・名和長年(伯)・千種()忠顕を顕職に挙げて近臣とした。これを世に三木一草と称し、「朝恩に誇った」と言われる。しかし失政相次いだ建武の新政は間もなく破綻し、1335年、中先代の乱を契機として足利尊氏が新政に反すると、時代は一気に南北朝の動乱へと突き進んでいった。新田義貞を伊豆竹之下で破り、一旦は京都を制圧した尊氏であったが、間もなく奥州軍を率いる北畠顕家を含めた後醍醐天皇方の反攻によって大敗し、九州まで落ち延びた。しかしわずか3ヶ月で頽勢を立て直した尊氏は再挙東上し、摂津湊川で新田義貞を破り、楠木正成は自刃し、再び京都に攻め込んだ。後醍醐天皇は比叡山に逃れて籠もり、入京した尊氏は東寺に本陣を置き、京都では両軍による合戦が引き続いた。この合戦の中で、名和長年も三条猪熊で戦死したと言われる(梅松論)。約半年にわたった京での攻防は和睦という形で終結し、光厳院を戴いた北朝政権・室町幕府が樹立された。しかし動乱はまだ終わっていなかった・・・。

 長年戦死後も、名和一族は南朝方として戦い続けたが、本拠の名和の庄は伯耆守護の幕将山名時氏に制圧され、一族はすり潰されていった。長年の孫長興は、同じ南朝方の菊池一族を頼って肥後八代に移り、そこで名和氏の命脈を保った。

 南北朝の動乱にはいくつもの重要な場所があるが、名和の庄もその一つで、建武の新政は正にここから始まったと言ってもよい。それ故、寡勢で帝を護った名和長年の戦功は群を抜き、寵臣となったのも当然であったろう。周辺にのどかな田園風景の広がる小さな漁村に、名和一族の足跡を見ることができる。

<後醍醐天皇腰掛岩・元弘帝御着船所碑>
腰掛岩→DSC05774.JPG
 隠岐を脱出した後醍醐天皇を乗せた船が着いた場所と言われている。腰掛岩は、船から降りた帝がしばらく休息された場所と言う。現在は御来屋漁港の手前に鎮座しているが、以前は浜辺にあり、波に洗われていたそうだ。昭和51年に漁港を改修した際に、位置はそのままに高さを上げて据えたと書かれている。御着船所の石碑は、船から降りた帝をしばらく匿った家に対して、江戸時代に鳥取藩がその功を賞して碑を建てたものと言う。

 場所:【腰掛岩】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.511863/133.494626/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【御着船所碑】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.511234/133.494862/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<名和神社>
DSC05791.JPG←拝殿の帆掛船紋
 名和長年を始め名和一族42人を祀った神社。名和氏の米倉があった場所に建てられており、何でも船上山合戦の際に焼き払った米が、今でも神社裏から出てくるそうだ。神社に掲げられているのは、当然ながら長年が帝から賜ったという帆掛船紋。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.504369/133.495120/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<名和氏館>
DSC05825.JPG
 名和氏2代の館の跡で、「又太郎屋敷」または「デーノヤシキ(殿の屋敷)」と呼ばれているそうだ。土塁が残ると大山町役場 観光商工課のHPにあるが、わからなかった。集落の中の公園に石碑が残るのみ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.497854/133.499089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<名和公一族郎党の墓>
DSC05813.JPG
 名和長年の菩提寺である長綱寺の裏山に名和一族の夥しい数の墓がある。ほとんどは五輪塔であるが、再上段真ん中にひときわ大きい宝篋印塔がある。これが名和長年の墓であろうか。その下には墓室入口があるので、中には名和一族の骨壷が置かれているのかも知れない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.497941/133.500935/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<的石>
DSC05833.JPG
 名和一族が弓矢の稽古をするときに的にしたと伝えられている石。表面にうっすらと、的にしたと思われる二重の輪が見えるが、当時のものかどうかは不明。弓の名人と言われた名和長年は、5人張りの強弓を引き、一矢で敵兵二人を射倒したと言う。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.498780/133.499862/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<三人五輪>
DSC05796.JPG
 名和長年、長男義高、3男高光の3人の首塚と伝えられている。場所が少々わかりにくい。すぐ脇には現代の名和家の墓もあり、名和氏の血脈が現代までこの地に息づいていることを物語っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.501505/133.501128/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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evergreen

楠木正成は、初めて興味を持った歴史上の人物でした。

日本の歴史は、
どちらかというと地域的争いと局地的争いの繰り返しだと思うのですが、
南北朝の頃は、全国に両勢力がちらばって、
対立をしていたわけですから、不思議時代だったと感じます。

by evergreen (2011-10-05 14:22) 

アテンザ23Z

>evergreenさん
源平、鎌倉時代から南北朝時代までは、
大名と呼ばれるような地方の大型権力が存在しなかったので、
小豪族が対立するどちらかの陣営に属して
争っていたのだと思います。

室町幕府ができて、守護大名による守護領国制が成立すると、
大名同士の争いに移ってきたのでしょう。
by アテンザ23Z (2011-10-05 19:30) 

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