船上山(鳥取県琴浦町) [その他の史跡巡り]
船上山は、1333年の元弘の乱の際に、後醍醐天皇が立て籠った山である。配流地の隠岐を脱出した帝は、伯耆国名和湊にたどり着くと、当地の土豪名和長年を頼った。長年はこれに応じ、要害性に乏しい自邸を焼き払い、帝を奉じて大山の支峰で峻険な船上山に立て籠った。この時、帝を山上まで馬でお連れしたとも(梅松論)、長年の弟長重が鎧の上に荒ごもを巻き、帝を背負ってお連れした(太平記)とも言われている。また長年は、商才に長けた土豪らしい才覚で、「米俵を山上に運んだものには銭500づつ与える」と近隣に振れ回り、わずか1日で兵糧5千余石を運び込んだ。名和軍は、わずか150騎の小勢に過ぎなかったが、山上に多くの旗を立てて大軍のように見せかけ、また天険の要害に拠って善戦し、幕府軍を翻弄した。そうこうしている間に、京都では挙兵した足利高氏が六波羅探題を数日で滅ぼし、時代は大きく動いていくこととなった。
船上山は、標高687m、周囲を屏風岩と呼ばれる50mもの高さの垂直断崖で囲まれた、見るからに威圧感のある山である。登山道は幾つかあり、私は山の北東から登る東坂登山道を登った。途中には、後醍醐天皇が京都還幸の折、籠を立てて休んだという籠立場の説明板がある。苦労しながら登り切ると、山上は広く緩やかな勾配の広場になっており、東端の高台上に「船上山行宮碑」が建っている。この高台は「お休み場」と呼ばれ、更にその奥の緩斜面を西に登って行くと、智積寺跡に建つ船上神社に至る。船上山は、中世には山岳仏教の霊山でもあった為、山上には多くの僧坊跡が残っている。各僧坊は大きな土塁と空堀状通路で囲まれた方形区画で、いくつも連なっており、土塁には門跡(虎口?)も確認できる。正に寺院城郭の趣きで、当時から多くの寺院が並んでおり、そのまま名和長年が城塞化したのだろう。後醍醐天皇が最初に拠った笠置山もそうだし、北畠顕家が奥州で根拠地とした霊山もそうだった。南北朝の時代、山岳寺院はそのまま城に転用されていたのだろう。一番奥の智積寺跡本堂跡の右側を入った所に、後醍醐天皇行宮跡が残っている。これも周囲を低い土塁で囲まれた方形区画で、解説板の横は門跡の様である。又ここには石が散乱しており、石積みの門だった様だ。奥が行宮と言うことは、手前の僧坊は名和氏手兵の駐屯地として利用されたものだろうか。帰りは横手道を通りたかったので、健脚向きという正面登山道を下ったが、これが岩だらけでほとんど道の体を成していない急坂道で、降るだけでも大変だった。こちらのルートはお勧めはしないが、横手道から望む眼下の大パノラマと頭上にそびえる屏風岩は絶景である。
尚、麓の船上山ダム近くの万本桜公園の丘の上に、「史跡船上山」の石碑が建っている。それから、国土地理院や各社の地図に記載されている「船上山行宮跡」の位置は全く間違っていることを付記しておく。正確な場所は、下記のリンク先である。
行宮跡→
←僧坊の土塁屏風岩→
←史跡船上山碑場所:【船上山行宮跡】
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.428225/133.591207/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
【史跡船上山の碑】
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.429379/133.605412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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