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打吹城(鳥取県倉吉市) [古城めぐり(鳥取)]

DSC06100.JPG←破却された天守台
 打吹城は、南北朝期の延文年間(1356~61年)、伯耆守護山名時氏の時に、その嫡子師義が田内城より移って築いた城と言われている。山名氏は一時期は一族で中国11ヶ国を領し、六分の一殿と呼ばれて強勢を誇ったが、3代将軍足利義満の守護抑制策にはまり、一族の内紛につけこまれて明徳の乱を引き起こし、勢力を著しく減退させた。その後、山名宗全の時代に勢力を盛り返したが、時の将軍足利義政の後継争いや有力守護大名畠山氏の内紛が絡んで、管領細川勝元と激しく対立し、応仁文明の大乱を巻き起こした。11年間にわたって続いたこの大乱によって、各地の守護大名の権力は没落し、伯耆でも守護山名氏に代わって羽衣石城の南条氏や尾高城の行松氏ら国人領主の勢力が強くなり、一方、隣国の出雲では守護代の月山富田城主尼子経久が台頭していた。1524年、尼子経久は伯耆に大挙侵攻して山名氏や周辺諸城を抜き、打吹城も攻略された。これは「大永の五月崩れ」と呼ばれる。城を追われた諸将は毛利元就を頼った。毛利氏が尼子氏を降した後、1580年には吉川元春が打吹城に入ったが、1582年、織田信長が本能寺の変で横死すると、羽柴秀吉は毛利方と和睦し、これ以後、打吹城は羽衣石城の支配下に入った。1600年の関ヶ原の戦いの戦功で中村一氏が伯耆に入封すると、打吹城は米子城の支城となり入番が置かれたが、1609年に中村氏が無嗣断絶になると幕府の直轄領となった。その後、1615年の一国一城令によって、伯耆は米子城を残して他の城は破却され、打吹城も石塁を壊し堀を埋めて廃城となった。

 打吹城は、標高204m、比高174mの見事な山容を持った打吹山山頂に築かれた山城である。打吹城は山頂の主城部以外に、越中丸・備前丸・小鴨丸など、曲輪を守った家臣の名が付いた出丸を備えた広い城であったが、徹底した破却の跡を残しており、多くの石垣跡が見られるが、石はほとんどが取り去られ、残った石はそこかしこに散乱している状態である。主郭の大手虎口も破壊されているが、その形状から内枡形があったものと思われる。また井戸らしきくぼみがあちこちにあり、井戸の多かった城だったようである。主郭はなかなか広く、石碑が立てられている土壇は天守台跡で、わずかに石垣が残っている。埋められたのか堀切はなく、ニノ郭等に破城の跡と思われる溝状遺構が残っている。破却がかなり徹底的に行われているので、その縄張りもわかりにくいほどである。もし往時のままだったら、有数の石垣を持った大城塞であったことが窺われるが、今では想像するしかない。それにしてもこれほど破却の痕跡を明瞭に残した城も珍しい。
天守台に残る石垣→DSC06107.JPG
DSC06089.JPG←主郭虎口の石垣跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.426407/133.822049/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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