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山名時氏墓所(鳥取県倉吉市) [その他の史跡巡り]

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 山名伊豆守時氏は、新田氏の一族で上野国山名郷を本拠としていた。南北朝の動乱期に実力でのし上がった有力守護大名の一人で、新田党には珍しく足利尊氏に従って武功を挙げ、室町幕府が成立してからは、尊氏の弟直義に従った。幕府の内訌、観応の擾乱では終始直義に従い、直義が鎌倉で死んでからも直義の養子直冬に従って、尊氏に抗し続けた。そんな中にあって、実力で領国の周辺諸国を切り取り、伯耆・因幡・美作・丹波・丹後の5ヶ国を実効支配した。2代将軍足利義詮の時、幕府に降参したが、「降参」とは名ばかりで、切り取った5ヶ国の守護職をそのまま安堵され、実際には和睦であった。そのため、長年幕府に忠勤を励んできた武士たちは、「多く所領を持ちたいと思ったら、ただ敵になりさえすればいい」と憤慨したと言われている。一方で時氏は苦労人でもあり、文字も読めない無学の武人であったが、「自分は、元弘以前はただ民百姓の様な状態で、上野の山名という所から出てきたので、渡世の悲しさも身の程も知っている。又、戦で難儀したことも思い知っている。(だが息子たちはおのれの分を知らず、心任せに振舞っているから、子の代になったら家を滅ぼすだろう)」と常々人に語っていたと言う(今川了俊著「難太平記」)。その言葉は現実となり、子の代に一族で11ヶ国を領有する強勢を誇ったが、3代将軍足利義満の強豪守護打倒の目標となり、一族の内訌につけこまれて明徳の乱を引き起こし、大きく勢力を減退させることになった。しかしそれでも、三管領家(斯波・細川・畠山)に次ぐ四職家(山名・赤松・京極・一色)に名を連ねる有力守護で、山名宗全の時に西軍の総帥となって応仁文明の大乱を引き起こす張本となった。

 山名時氏の墓は、田内城から目と鼻の先、倉吉市内の山名寺にある。「六分ノ一殿山名家始祖」と袖書きされた標柱が脇に立った墓は、摩耗の進んだ古い宝篋印塔で、その大きさは、往時の勢威を忍ばせる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.440184/133.832520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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