田内城(鳥取県倉吉市) [古城めぐり(鳥取)]
←二重堀切
田内城は、南北朝時代に因幡と伯耆の守護であった山名時氏が築いた城である。山名時氏は新田義貞の庶流で、足利氏に従って功績を挙げ、室町幕府の重臣となった。その事績については、山名時氏墓所の項に記載する。時氏は興国年間(1340~46年)に、因幡に二上山城を、伯耆にはこの田内城を築いて領国経営の拠点としたと言われ、田内城には嫡子師義を配した。師義は後の延文年間(1356~61年)に、より峻険な打吹城を築いて移り、田内城は廃城となった。
田内城は、小鴨川に望む標高60m、比高わずか40m程の小山に築かれた城である。山頂には主郭が置かれ、主郭内には現在模擬天守が建てられているが、勿論史実ではない。主郭西の緩斜面に小さなニノ郭・三ノ郭を置き、その先の尾根の鞍部には二重堀切を構築して防御を固めている。1本目の堀切は横堀形状となっている様だ。各曲輪はそれぞれ虎口や土塁が明瞭に残っている。また主郭の東側にも腰曲輪が築かれている。遺構は比較的よく残っているが、守護所として考えると非常に小さな城で、麓の居館に対する単なる詰城として考えても、動乱の時代に対応するには防御性に不足があったことが窺われる。間もなく打吹城に移ったのも、遺構を見ればうなずける。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.442736/133.838056/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
田内城は、南北朝時代に因幡と伯耆の守護であった山名時氏が築いた城である。山名時氏は新田義貞の庶流で、足利氏に従って功績を挙げ、室町幕府の重臣となった。その事績については、山名時氏墓所の項に記載する。時氏は興国年間(1340~46年)に、因幡に二上山城を、伯耆にはこの田内城を築いて領国経営の拠点としたと言われ、田内城には嫡子師義を配した。師義は後の延文年間(1356~61年)に、より峻険な打吹城を築いて移り、田内城は廃城となった。
田内城は、小鴨川に望む標高60m、比高わずか40m程の小山に築かれた城である。山頂には主郭が置かれ、主郭内には現在模擬天守が建てられているが、勿論史実ではない。主郭西の緩斜面に小さなニノ郭・三ノ郭を置き、その先の尾根の鞍部には二重堀切を構築して防御を固めている。1本目の堀切は横堀形状となっている様だ。各曲輪はそれぞれ虎口や土塁が明瞭に残っている。また主郭の東側にも腰曲輪が築かれている。遺構は比較的よく残っているが、守護所として考えると非常に小さな城で、麓の居館に対する単なる詰城として考えても、動乱の時代に対応するには防御性に不足があったことが窺われる。間もなく打吹城に移ったのも、遺構を見ればうなずける。
三ノ郭と二ノ郭虎口→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.442736/133.838056/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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