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利神城(兵庫県佐用町) [古城めぐり(兵庫)]

DSC06910.JPG←三ノ丸の石垣
 利神城は、播磨守護赤松氏の庶流別所氏の築いた城である。南北朝期の1349年、別所敦範が白旗城の北の守りとして城を築いたのに始まる。別所氏は光則の代に嘉吉の乱が起こり、主家赤松氏と共に衰亡したが、応仁の乱の際に別所治定は再興された赤松政則を助けた功により、利神城主に復帰した。戦国時代後期の1578年、尼子氏再興を図って上月城にあった山中鹿介幸盛は、別所林治の拠る利神城を攻め落とした。その後は宇喜多秀家の持ち城となったが、宇喜多氏は1600年の関ヶ原の戦いで敗北・滅亡し、姫路城に入部した池田輝政が、甥の池田由之を3万石で利神城主とした。利神城が、今に残る近世城郭へと改修されたのは由之の時である。その後、1631年に池田氏が赤穂城に転封となると、利神城は廃城となった。

 利神城は、標高373m、比高233mの利神山に築かれた山城である。山頂部は木が伐採されているので、麓からでも城の勇姿を眺めることができる。総石垣の城で、最高所に天守台を置き、Y字状に曲輪を配置している。二ノ丸・三ノ丸は郭内にややきつい傾斜があり、削平が不十分であるので、あまり大きな建物はなかったと思われる。各曲輪は虎口構造が明確で、鴉丸と呼ばれる本丸には面白い事に梯子を架けたと思われる埋門がある。各曲輪の外周には高い石垣が築かれ、斜面に沿った登り石垣に近い城塁となっており、大きいものでは高さ最大5m程、長さは30m程にもなる。石垣の外にはほとんど犬走りがない場所もあり、よくこんな斜面上にこれだけの石垣を積むことができたものだと感心する。しかし所々かなり石垣の崩落が進んでおり、この城に登るのは危険とされている。堀切は無く、各曲輪は大した広さはないので、それ程大規模な山城というわけではない。これらの諸点で、若桜鬼ヶ城と非常に似通った印象がある。利神城も、若桜鬼ヶ城と同様見応えがあって素晴らしい。石垣はこれ以上崩壊しないよう、何らかの保護措置を施して欲しい。尚、城の北側には途中まで車道が伸びているが、訪城した時は途中で道が崩落し通行不能となっていたので、大手道から登城した。ちなみに、山麓のやや離れた場所には城主居館跡の石垣も残っている。
利神城遠望→DSC06854.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.046107/134.377459/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世山城
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