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岩屋城(岡山県津山市) [古城めぐり(岡山)]

DSC07298.JPG←主郭から見た城主居館郭と馬場
 岩屋城は、美作における中心的な大城郭である。1441年、嘉吉の乱で赤松氏討伐に功のあった山名教清が美作の守護に任ぜられて岩屋城を築いた。応仁の乱が勃発すると、岩屋城主山名政清は、山名一族として西軍の主将山名宗全の催促に応じて軍勢を率いて京に上り、この隙を突いて播磨の赤松政則が岩屋城を攻め落とし、1473年に政則は美作守護に任ぜられて、部将大河原治久を岩屋城代とした。1520年、赤松政村の家臣であった三石城主浦上村宗が謀反して岩屋城を奪取し、中村則久を城代とした。政村は岩屋城奪還を企図して果たせず、赤松氏の岩屋城支配は終わりを告げた。1544年、出雲の月山富田城主尼子晴久は美作に侵攻し、岩屋城主中村則治は尼子氏に降った。1568年頃、尼子氏の将で副将として岩屋城に入っていた芦田正家は則治を殺害して岩屋城主となり、主家浦上氏を凌ぐ勢力に成長していた宇喜多直家に投じ、1573年には直家の宿将浜口家職が岩屋城主となった。直家は当初毛利氏と結んでいたが次第に対立し、直家が織田方に付くと、1581年、毛利方の中村頼宗・大原主計介が岩屋城を攻め落とし、中村頼宗が岩屋城主となって再び毛利方の有に帰した。1582年、織田信長の横死を秘した羽柴秀吉は毛利氏と和議を結んで備中高松城を開城させ、宇喜多・毛利の領土を画定した。しかし領土境を備中高梁川とすることに美作の毛利方諸将が服さなかったため、宇喜多氏の武力接収戦が行われた。岩屋城も、周囲を囲むように宇喜多方の陣城が築かれて攻囲されたが決着がつかず、ついに前将軍足利義昭の調停で和議が結ばれ、毛利方の諸城は開城して岩屋城も宇喜多氏の支配下となった。岩屋城には宇喜多氏の宿将長船越中守が入ったが、1590年、野火によって焼け、以後廃城になったと言う。

 岩屋城は、美作支配の重要拠点となった城だけあって、城域は広大で、各曲輪の規模も大きい。標高483m、比高303mの岩屋山山頂に主郭を置き、そこから派生する尾根には馬場や東曲輪群、さらに馬場の南の尾根筋に段曲輪群を設けている。ニノ郭・三ノ郭は主郭から東にやや離れて配置され、それぞれ独立性の高い曲輪となっており、一城別郭の縄張りとなっている。段曲輪群の中には、防御のために要所に堀切が設けられているが、堀切は全体的に小さい。そして堀切手前にも段曲輪が設けられ、敵を前面で迎撃できる様になっている。北西尾根の段曲輪群側面の中腹には横堀も確認できる。堀切で素晴らしいのはニノ郭北側の大堀切で、深さ10m以上もある見事なものである。その他、大手道両側の尾根上にも段曲輪群が設けられており、非常に守りの固い城であったことが想像される。しかし、この城で何と言っても素晴らしいのは、「てのくぼり」と呼ばれる連続12本の畝状竪堀で、規模も大きく圧巻である。これほど見事な畝状竪堀はそうあるものではない。かなりの範囲が整備されているので、削平された曲輪がよくわかる。ハイキングコースのルート設定も素晴らしく、大手から登って一通り回っていくと、最後にクライマックスの大堀切と畝状竪堀が見れるにくい演出である。石垣はわずかしか残っていないが、井戸跡や門跡もよく残り、中世山城の威容をよく残している。

 尚、岩屋城の麓の大手筋には家臣団屋敷跡の標柱が建っており、周辺に築かれた宇喜多方の陣城群の標柱も建っている。私は時間の関係でパスしたが、時間のある人は陣城群も巡ってみると面白いだろう。
南西尾根段曲輪群側方の横堀→DSC07275.JPG
DSC07338.JPG←ニノ郭北側の大堀切
圧巻の畝状竪堀「てのくぼり」→DSC07379.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.076177/133.834237/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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ノリパ

☆5つですね。津山ですか、覚えておきます。いつか行ってみようと思います。
by ノリパ (2011-10-16 07:49) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
ほとんど畝状竪堀「てのくぼり」による評価です・・・(^^;
関東の城に畝状竪堀は少ないので、
見ただけで興奮しちゃいます。
by アテンザ23Z (2011-10-16 15:07) 

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