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木ノ芽峠城塞群(福井県南越前町) [古城めぐり(福井)]

IMG_4951.JPG←木ノ芽城の堀切
(2004年4月訪城)
 木ノ芽峠城塞群は、越前の戦国大名朝倉氏が築いた城である。北国街道の難所木ノ芽峠を挟んで、北西から南東に伸びる尾根上に連なる、鉢伏城・観音丸城・木ノ芽城・西光寺丸城の4城から成っている。1569年、朝倉氏5代義景は、織田信長の越前侵攻に備えてこの城塞群を築き、木ノ芽城に家臣の堀二郎三郎を置いて守らせた。朝倉氏が信長によって滅ぼされると織田方の持ち城となったが、1574年に越前一向一揆衆がこれらの城塞群を奪取して、信長に対する前衛の城とし、和田本覚寺、石田西光寺らに守らせた。織田信長は、朝倉氏を滅ぼして一旦平定したかに見えた越前が、一向衆によって再び叛軍の手に落ちたため、大軍による越前一向衆の徹底殲滅を決断した。1575年8月、信長は一揆殲滅の為、大軍を敦賀に集結させた。木ノ芽峠城塞群からは遥かに敦賀市街が一望でき、奥山秀範氏のHP「越前若狭歴史回廊」では、敦賀に溢れかえる織田勢の大軍を遥かに望み見て、一揆軍の士気は急速に萎えていったのではないかと推測している。事実そうであったろう。そしていよいよ始まった信長の越前再侵攻では、大軍に攻められて各所の一揆勢は僅かの間に壊滅してゆき、木ノ芽峠城塞群も落城した。この後、信長は徹底した弾圧・殺戮を一揆残党に加えたことが、信長の部将前田利家の書状に記載されている。一向一揆壊滅後の越前は織田家重臣の柴田勝家に与えられ、勝家は北の庄城を築いて北国経営の拠点とし、新たに栃ノ木峠を抜ける街道を整備した。以後、木ノ芽峠の重要性は薄れ、木ノ芽峠城塞群も廃城になったと思われる。

 木ノ芽峠城塞群には、栃ノ木峠から伸びる狭い車道をしばらく北上し、木ノ芽峠茶屋の場所から簡単に訪城することができる。いずれの城も頂部に主郭を置き、主郭周囲には土塁を築き、その外周を横掘・堀切・竪堀・腰曲輪で防御した構造で、比較的簡単な縄張りで眼を見張るような技巧性には乏しいが、遺構はよく残っている。木ノ芽城と観音丸城は、この城塞群の中核であったと思われる城で、木ノ芽峠を通る北国街道旧道を2つの城で挟んで、古道を押さえていたことがその配置からよくわかる。それに対して鉢伏城は、最高所の鉢伏山に位置し、詰城的存在もしくは物見であったと考えられる。西光寺丸城は出城の位置付けであろう。遺構は良好でハイキングルートも整備されているが、中春でも既に薮が多く、遺構の確認が困難な部分もある。特に竪堀については確認が難しい。今から思えばこれらの城も見落とした遺構が数多く、機会があれば再度確認してみたい。尚、城塞群の内、鉢伏城については場所がやや離れているため、この時はパスした。
西光寺丸城の横堀→IMG_4972.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.717186/136.139778/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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