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高松城水攻築堤跡(岡山県岡山市) [その他の史跡巡り]

DSC08118.JPG←蛙ヶ鼻築堤跡
 高松城水攻築堤跡は、史上名高い羽柴秀吉による備中高松城の水攻めの際に築かれた堤防である。天下布武を目指し統一事業を推し進める織田信長は、秀吉を中国攻めの総大将として中国の覇者毛利氏を攻めさせ、1582年、両軍は備中で激突した。3月15日に姫路城を2万の軍勢で出立した秀吉は、途中宇喜多勢を加え、4月16日より毛利方の境目7城を攻めて、4城を落としたが、中核であった高松城は、城主清水宗治が沼地に築かれた城の特性を生かして籠城戦を行い、中々落ちなかった。そこで秀吉は、軍師黒田官兵衛孝高の建策を容れて、沼地の地形を逆手にとって城を遠巻きにして堤防を築き、梅雨の長雨を利用して城の周囲を水没させる水攻めを敢行した。秀吉は5月8日から築堤工事に着手し、突貫工事で総延長3kmに及ぶ大堤防をわずか12日で築いたと言われる。19日に堤防が完成すると、折からの長雨で数日にして高松城周囲は水没し、5000とも言われる城兵は完全に孤立した。毛利方は、当主毛利輝元を総大将に吉川元春・小早川隆景ら4万の援軍が21日に高松城西方に着陣し、秀吉勢と睨み合いが続いた。その最中の6月2日、織田信長が京都本能寺で明智光秀に攻め滅ぼされた。その翌日、光秀から毛利への使者を捕らえた秀吉は、急ぎ毛利方との講和を結び、城兵の助命を条件に城主清水宗治は衆人環視の中、小舟の上で自刃した。秀吉は宗治の首実検を済ませると、急いで軍勢を引き上げて姫路城に戻り、主君の仇明智光秀を討つために、史上名高い中国大返しを開始した。

 秀吉の築いた水攻築堤は、現在は備中高松駅の東方400m、大平山山塊の西麓の平野部にある蛙ヶ鼻築堤が、わずか10m程残っているに過ぎない。明治36年の鉄道工事の際に、築堤の土砂の大半が持ち出されて湮滅したと言う。残った築堤付近は現在、高松城水攻め史跡公園となって整備されている。地中からは堤防基部の土俵や杭列が見つかっており、公園内にその痕跡が復元保存されている。

 また築堤背後の丘陵には、石井山の秀吉本陣跡、秀吉方諸将の陣跡が残り、秀吉本陣近くには宗治の首を埋めたという首塚の跡も残っている(首塚は現在は高松城本丸に移設されている)。諸将の陣跡は時間の関係で行かなかったが、秀吉本陣と首塚だけ訪れた。途中の山道脇にはいくつもの腰曲輪状の削平地があり、おそらく秀吉の兵が駐屯していたのであろう。石井山頂上の本陣跡は削平されたただの平場で、虎口や土塁などの陣城らしい遺構は確認できなかった。ただここからは眼下に高松城を一望でき、絶好の陣場であったことが窺える。
秀吉本陣跡→DSC08134.JPG
DSC08131.JPG←清水宗治首塚跡

 場所:【蛙ヶ鼻築堤】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.685875/133.826770/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【秀吉本陣跡】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.689351/133.831040/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0




タグ:古戦場
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evergreen

行田の石田堤はかなり残っていますが、ことらの方が綺麗に整備されていますね。
by evergreen (2011-10-23 17:45) 

アテンザ23Z

>evergreenさん
やはり関東は、史跡整備にはちょっと熱心さが足りませんよね。
少しは地方都市を見習って欲しいものです。
by アテンザ23Z (2011-10-23 23:15) 

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