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備中松山城(岡山県高梁市) [古城めぐり(岡山)]

DSC08280.JPG←大手門跡
 備中松山城は、江戸時代に水谷勝宗が築いた近世山城である。元々この地には、鎌倉時代にこの地の地頭秋庭三郎重信が臥牛山上に築いた大松山城があり、それに対して近世城郭としての備中松山城は小松山城とも呼ばれる。勿論、中世には大松山城が備中松山城と呼ばれていた。秋葉氏5代の後、鎌倉末期の1332年に高橋九郎左衛門宗康が入城して、城砦を小松山まで拡張した。南北朝期の1355~62年には高越後守師秀(高師泰の子、高師直の甥)が備中守護として在城したが、1362年に城代秋葉信盛が師秀を追放して備中守護代となった。その後、幾多の城主の変遷を経て、戦国後期の1571年には有力国人の三村元親が入城し、大松山・天神丸・小松山・前山と全山に城域を拡張した。この頃西の毛利氏が強勢を以って勢力を東に拡張し、備中に侵攻して松山城を取り囲んだ。1575年5月、城を脱出した元親は、傷を追っており逃れ難きを悟って近くの松蓮寺で自刃した。この戦いを「備中兵乱」と言う。以後、松山城は毛利氏の支城となり、毛利氏家臣の天野五郎左衛門、次いで桂民部大輔が城番となった。1600年の関ヶ原合戦以後、松山城は徳川氏の支配下となり、備中総代官として小堀新助正次(小堀遠州の父)が入城した。1617年、池田備中守長幸が鳥取城から移封されて松山城主となり、1642年には水谷伊勢守勝隆(元下野久下田城主で、結城氏麾下の名将水谷蟠龍斎正村の甥)が城主となった。2代水谷勝宗は、1681年から足掛け3年を掛けて近世城郭として大々的に改修し、現在の松山城が完成した。水谷氏3代の後、城主は変遷し、最終的には板倉氏が城主となって幕末まで存続した。

 備中松山城は、標高420m、比高340mの山上に築かれている。太平の時代に築かれた城としては異例のことで、この時代に峻険な山上にこれほどの山城を築く必要があったのか、不思議でならない。また幕府がよく築城を認めたものである。幾重にも連なる壮大な石垣を持った城で、巨大な岩塊の上に器用に石を積んでいる。但し、高石垣を積む技術はなかったらしく、それぞれの石垣は比較的低く押さえられている。一つには足場の不安定な山上という制約もあったのだろう。本丸には現存の天守がそびえているが、わずか二層のこじんまりしたものである。天守入口は、ほかの近世城郭と比べると平易な構造で、この辺りはやはり太平の世の天守という感じがする。この他二重櫓や土塀が現存している。石垣はかなり広範に築かれていて、本丸、二ノ丸・三ノ丸の外周のほか、少し離れた中太鼓の丸付近もほぼ総石垣となっている。中太鼓の丸からは、眼下の前山に築かれた下太鼓の丸が見える。備中松山城の北の尾根筋は大松山城につながっているが、途中の鞍部に石垣が積まれた堀切があって、ここまでが近世松山城の城域であろう。

 以上が山上の遺構で、一方、備中松山城は近世山城であるが、根古屋式山城でもあって、南麓には水谷勝宗が整備した御根小屋と呼ばれる屋敷跡が残っている。現在は高梁高校に変貌しているが、石垣や平場、門跡は往時のままであり、その雰囲気を色濃く残している。
天守背後の二重櫓→DSC08416.JPG
DSC08409.JPG←搦手虎口跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.809099/133.622192/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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evergreen

現存12天主のうち、
ここと丸岡城はまだ訪れた事がありません。
by evergreen (2011-10-25 23:23) 

アテンザ23Z

>evergreenさん
私はあと残すは弘前城だけとなりました。
青森方面にはしばらく行く予定がありませんが・・・。
by アテンザ23Z (2011-10-25 23:29) 

ノリパ

それがし大好きなお城です。岩盤の上の石垣、また見に行きたいです。
by ノリパ (2011-10-30 11:58) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
不整形な岩盤の上に石を積む技術ってすごいですよね。
大手門付近の何段も重なる石垣は壮観でした。
by アテンザ23Z (2011-10-30 17:40) 

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