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三村元親自刃地(岡山県高梁市) [その他の史跡巡り]

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 備中松山城主三村元親は、鶴首城主三村家親の子である。家親は、当初備中最大の勢力庄氏等と共に尼子方に付いたが、尼子氏の勢力が衰退し、代わって毛利氏の勢力が伸長してくると毛利氏に従った。そして毛利氏の力を背景に、家親は備前・美作に進出し、浦上氏や宇喜多氏と対立することとなった。宇喜多直家は、1566年、刺客を以って家親を暗殺した。家親の跡を継いだ元親は、宇喜多氏を攻めたが利あらず、逆に宇喜多氏の勢力が備中に伸び、時の松山城主庄高資は宇喜多側に付き、1570年、元親は出兵で手薄になった松山城を急襲奪取して松山城に入った。この頃、毛利・宇喜多両勢力は備中を最前線として拮抗し、1572年、毛利氏と宇喜多氏は講和した。元親は、父の仇の宇喜多氏と講和した毛利氏を見限って、中国地方に戦力を伸ばしつつあった織田信長に属した。三村氏の離反を知った毛利氏は、1574年、大軍を率いて備中に侵攻し(備中兵乱)、翌75年5月、遂に松山城を落城させた。元親は、辛うじて脱出したものの傷を追って逃れ難きを悟り、松蓮寺で自刃して果てた。
 自刃の地は、現在の元親池という池の畔に当たり(松蓮寺は後に移転したらしい)、祠と石碑が建っている。居城はわずかな期間であったが、池にその名が残るほど、三村氏が松山城の地に残した足跡は大きかったのだろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.795550/133.622879/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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