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岡山城(岡山県岡山市) [古城めぐり(岡山)]

DSC08792.JPG←ねじれたような天守の屋根
 岡山城は、宇喜多氏の築いた近世城郭である。元々この地には、金光氏が築いた石山城(岡山城の二ノ丸付近)があったが、1570年に宇喜多直家が石山城主金光宗高を謀殺して城を奪い、1573年に改修を施して居城とした。その後宇喜多氏は、織田信長の中国方面軍司令官であった羽柴(豊臣)秀吉に従い、信長の横死後に秀吉が天下の権を握ると、秀吉の元で成長した直家の子秀家は秀吉の寵遇を受けて、備前・美作と備中東部・播磨西部まで領有する大大名となった。そして大身に相応しい居城とする為、秀家は小田原の役が集結した1590年から8年を掛けて近世城郭としての城の大改修・拡張を行った。秀家は、秀吉の晩年に五大老・五奉行・三中老の制が建てられると、徳川家康や前田利家らと並んで五大老の席に列したが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍について敗北した宇喜多氏は改易され、秀家は八丈島に配流となった。宇喜多氏の後は、小早川秀秋が岡山城主となった。しかし秀秋は2年後に病没して小早川氏は断絶となり、代わって姫路城主池田輝政の5男忠継が岡山城主となった。岡山城は、小早川時代・池田時代にも宇喜多氏時代の城に整備拡張の手が加えられた。1632年、池田忠雄が急死して嫡男光仲が岡山城主となったが、幼少の為、鳥取城主池田光政と国替えとなった。以後、光政系池田氏が岡山城主となり、幕末まで存続した。

 岡山城は、西国の大名が築いた堂々たる近世城郭で広大な城域を有していたが、本丸以外は市街化されてしまい、かつての城域に比べれば僅かな部分しか残っていない。その為、現在残る遺構から縄張りについて他の城と比較することは難しいが、本丸について言うと、津山城などと比べると虎口構造が平易でほとんど枡形が築かれていない。しかしほぼ総石垣の城で、宇喜多時代・小早川時代・池田時代のそれぞれの石垣が混在しており、また公園化された敷地内には、発掘された地中の宇喜多氏時代の石垣の一部が復元保存されている。岡山城の天守は昭和20年に戦災消失したが現在は復元されて堂々とした威容を誇っている。この漆黒の天守は非常に特徴的で、五角形の天守台に合わせて作られた望楼型の4層6階の天守は、下から見ると上層階にいくに従って屋根のラインが微妙に螺旋状にねじれているように見える。天守台の石垣は、宇喜多氏時代のものがそのまま使用されているようである。現存建築物としては月見櫓や、本丸からかなり離れた所に西ノ丸西手櫓が残っている。また、街中にも二ノ丸内郭や西ノ丸の石垣が多数残っており、石垣を残しつつ街を作った感じである。石山門跡などは枡形の石垣まで残っており、市街化しているとはいえ、こういう遺構がきちんと残っているのは嬉しい。天守が現存していればさぞかし素晴らしかっただろうと、今更ながら天守を焼いた戦災が恨めしく思える。
街中に残る二ノ丸櫓台→DSC08820.JPG
DSC08828.JPG←石山門跡の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.664735/133.936032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:近世平城
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evergreen

全くですね、岡山城とお隣の広島城は、個性的で美しいな天守だとおもいます。惜しいです。
by evergreen (2011-10-29 12:42) 

アテンザ23Z

>evergreenさん
広島城なんて、「焼失」じゃなくて、
原爆の熱線で焼かれ、続く衝撃波で吹き飛んでますし。
明治維新後の城址破却と太平洋戦争の戦災焼失がなければ、
一体この国にはどれだけの現存天守があったことか。
残念でなりません。
by アテンザ23Z (2011-10-29 16:17) 

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