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田原城(神奈川県秦野市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC08909.JPG←城跡?の台地
 田原城は、小田原北条氏の重臣大藤秀信の居城である。大藤氏は、北条五傑とも言われる家臣団に名を連ねる重臣で、北波多野一帯を所領とし、足軽大将・中郡郡代として活躍、遊軍の総大将として各地の戦いに出撃して勇名を馳せた。秀信は、常陸小田氏との戦いや1561年の上杉謙信の小田原攻めの迎撃戦に活躍し、1568年に武田信玄の駿河侵攻が始まると、今川氏救援のため駿河に侵攻して武田軍と交戦した。北条氏康の死後、武田氏との同盟が成立すると、信玄の西上戦に援軍として参加し、1572年、遠江二俣城の戦いで討死した。その後は嫡男政信が継いだ。政信も、武田勝頼との交戦や徳川家康と戦った天正壬午の乱などで軍勢を率いて活躍した。1590年の小田原の役の際には、大藤長門守が50騎を率いて田原城を守備したとも言う。田原城自体の事績については、手元に文献がなく不明である。

 田原城は、北条氏の重臣の城でありながら、長らく所在不明とされてきた謎の城である。しかし近年の発掘によって、田原堀ノ内地区が城跡と推測されている。この地からは、北条氏の築城法の特徴でもある畝堀が発掘されているそうだ。田原堀ノ内は現在一面の畑となっており、遺構は全く残っていない。城の場所もはっきりとはわからなかったが、山腹の東斜面に開けた傾斜地付近か、この傾斜地の南側に半島状に張り出した台地上であったと推測される。台地上は段々の畑となっており、両側には道路が通り、堀跡だった可能性も考えられる。但し、要害性には乏しい地形で、居館から発展した小城塞に過ぎなかったと思われる。

 尚、田原城の西方300mにある香雲寺には、大藤氏の墓があり、江戸時代初期に造られた梵鐘の銘文には大藤秀信の名が記載されている。
香雲寺にある大藤氏の墓→DSC08930.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.392356/139.214019/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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