今泉館(神奈川県海老名市) [古城めぐり(神奈川)]
←館に由来する切通し状の井戸坂
今泉館は、武蔵七党の一、猪俣党の流れを汲む今泉氏の居館である。猪俣党の祖時資から7代目の伊予僧都が初めて今泉氏を称し、近隣の粕屋氏・海老名氏らと縁戚関係になっていたと言う。今泉氏については、鎌倉幕府の正史「吾妻鑑」に、承久の乱で死傷した今泉七郎他6名の名が記載されている。室町時代の永享の乱の際には、鎌倉公方足利持氏方に与していた一色伊予守六郎が今泉館に籠ったとされ、幕府軍はその討伐の為、長尾出雲守憲景・太田備中守資光を大将として攻め寄せたが、伊予守は既に下総の結城氏朝の元に逃れた後だったと言う。その後、結城 合戦で伊予守は討死したとされる。尚、秦野市にも今泉館と伝承される場所があり、どちらが伊予守が立て籠もった館なのかは不明である。
今泉館は、現在マンションや宅地となっており、遺構は全く残っていない。JR相模線のすぐ東側の段丘上に位置し、急崖上に建つ居館であったらしい。館跡の南側には、館の茶の湯に使われた井戸があり、底を通る切通し状の車道は井戸坂と呼ばれ、その標柱に今泉館のことが簡単に記載されている。この切通し道は堀跡であろうか?
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.465389/139.395422/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
今泉館は、武蔵七党の一、猪俣党の流れを汲む今泉氏の居館である。猪俣党の祖時資から7代目の伊予僧都が初めて今泉氏を称し、近隣の粕屋氏・海老名氏らと縁戚関係になっていたと言う。今泉氏については、鎌倉幕府の正史「吾妻鑑」に、承久の乱で死傷した今泉七郎他6名の名が記載されている。室町時代の永享の乱の際には、鎌倉公方足利持氏方に与していた一色伊予守六郎が今泉館に籠ったとされ、幕府軍はその討伐の為、長尾出雲守憲景・太田備中守資光を大将として攻め寄せたが、伊予守は既に下総の結城氏朝の元に逃れた後だったと言う。その後、結城 合戦で伊予守は討死したとされる。尚、秦野市にも今泉館と伝承される場所があり、どちらが伊予守が立て籠もった館なのかは不明である。
今泉館は、現在マンションや宅地となっており、遺構は全く残っていない。JR相模線のすぐ東側の段丘上に位置し、急崖上に建つ居館であったらしい。館跡の南側には、館の茶の湯に使われた井戸があり、底を通る切通し状の車道は井戸坂と呼ばれ、その標柱に今泉館のことが簡単に記載されている。この切通し道は堀跡であろうか?
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.465389/139.395422/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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