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平子平右馬允屋敷(神奈川県横浜市磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00804.JPG←屋敷地付近の真照寺
 平子氏は、武蔵七党横山党の一流とも、桓武平氏の一流とも、また相模の豪族三浦氏の庶流とも言われるが定かではない。1193年、源頼朝が富士で巻狩りを行った際、日本3大仇討ちの一つに謳われる曽我兄弟の討ち入りがあったが、平子平右馬允有長は曽我十郎と切り結んで勇名を馳せた。この後平子氏は、磯子に在住した有長の系統と、その弟で本牧石川を領した石川経長の系統に分かれた。磯子平子氏は、室町時代を通して鎌倉公方足利氏や関東管領山内上杉氏に従って活動したことが古文書などに見られる。しかし小田原北条氏の勢力が伸長してくると、徐々にその圧迫を受け、1516年に北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)が三浦氏を滅ぼし、更に2代氏綱が江戸城を支配した頃には、平子氏は相模から追われて越後に逃れたらしい。

 平子平右馬允屋敷は、現在の磯子小学校・真照寺の近辺にあったと推測されている。上屋敷・下屋敷の2つがあったとされ、上屋敷は真照寺の境内を含む北側に、また下屋敷は真照寺より400m程南の磯子旧道沿いにあったと言う。現在は市街化で遺構は全く残っておらず、日本城郭大系の要図に記された上屋敷地は、真照寺の墓地となっている。尚、真照寺は平子平右馬允有長が再興した寺で、平子氏の菩提寺となり、そこに伝わる毘沙門天像は有長の肖像と伝わっていると言う。それにしてもこの寺、変わった形の寺堂である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.414603/139.621071/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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