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鎌倉史跡巡り その4(神奈川県鎌倉市) [その他の史跡巡り]

 鎌倉は、よく知られている通り坂東武士の都である。鎌倉には前回、2009年10月に訪れて、主に南北朝関係の史跡を巡ったが、今回は鎌倉幕府の有力御家人の屋敷跡をメインにして駆け足で巡ってみた。

<大江広元邸>
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 鎌倉幕府創業の功臣で有能な官僚であった大江広元は、後に寒河江大江氏などを輩出し、その一流は安芸に下って毛利氏となった。即ち毛利元就は、大江広元の後裔である。その屋敷地は鎌倉市街の東方、金沢街道沿いの十二所地区にある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.319450/139.578263/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<畠山重忠邸>
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 鎌倉武士の鑑、畠山重忠については、畠山重忠館の項や二俣川古戦場の項で記載している。その屋敷地は、何と鶴ヶ岡八幡宮境内の東隣にあったらしい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.324177/139.557298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<土佐坊昌俊邸>
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 土佐坊昌俊は、渋谷氏の一族である。その事績は渋谷城の項に記載する。源頼朝が義経を追討する際、多くの武士は辞退したが、昌俊のみがこれを引き受けたが、夜襲に失敗して惨殺された。その屋敷地は、北条執権邸(現、宝戒寺)の目と鼻の先にある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.322216/139.556805/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<比企能員邸>
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 比企能員は有力御家人で、その妻は頼朝の嫡子頼家の乳母であり、娘を頼家に嫁がせて、2代将軍の外戚として権勢を強めた。しかし頼家が病気で危篤となった際、北条時政によって一族は悉く謀殺された。その屋敷は比企谷の妙本寺の地にあったと言われ、ここは比企一族の悲劇の寺である。境内には比企一族の墓がある。尚、加賀前田家の藩祖前田利家の側室で3代藩主利常の実母寿福院の大きな墓もある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.317139/139.557577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<足利持氏供養塔>
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 鎌倉公方足利持氏は、6代将軍足利義教を「呪詛怨敵」と呪ったとされる血書願文を残したほど激しい気性の持ち主で、後に「永享の乱」と言う大乱を引き起こし、幕府・関東管領連合軍に滅ぼされた。その供養塔が別願寺に残っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.314442/139.554831/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<佐竹屋敷>
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 佐竹氏は、新羅三郎源義光の後裔で、常陸に土着して有力御家人に列した。後の戦国時代には戦国大名に脱皮して鬼義重と恐れられた佐竹義重を輩出し、小田原北条氏や伊達氏と互角に渡り合った。その屋敷は、現在の大寶寺の地にあった。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.315090/139.557384/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<新田義貞本陣跡>
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 1333年5月8日に上野から挙兵した新田義貞は、幕軍を撃破しつつ南下し、鎌倉を攻撃した。数日の攻防戦の後、稲村ヶ崎を突破して鎌倉府中に乱入して鎌倉を制圧した。この府中の市街戦の時に義貞が本陣を置いたのが、現在の九品寺の地と言われている。義貞は鎌倉幕府滅亡後、北条方の戦死者を弔う為に材木座に九品寺を建立したと言う。九品寺に掛かる2つの扁額は、義貞の筆を写したものと伝えられている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.307176/139.551655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<畠山重保邸>
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 畠山重保は、重忠の嫡子である。北条時政の婿平賀朝雅と争ったことがあり、それが元で北条氏に讒訴されて、この地で攻め滅ぼされた。その翌日、父の重忠も謀略によって二俣川で討死した。重保の屋敷地は一の鳥居の近くにあり、重保の墓とされる大きな宝篋印塔が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.313129/139.548222/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<和田塚>
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 和田塚は、和田合戦で討死して滅亡した和田義盛一族の塚である。義盛の事績は、和田城の項に記載する。和田塚は、そのものズバリの名の駅の近くにある。多くの五輪塔が並ぶが、塚のある高台の前がゴミ捨て場になっているのは、ちょっとひどいと思う。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.313164/139.545561/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<安達盛長邸>
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 安達藤九郎盛長は、源頼朝の古参家臣で、蛭ヶ小島配流の時から頼朝の側近く仕え、石橋山での挙兵時にも頼朝に従って奮戦し、鎌倉幕府創業の功臣の一人となった。屋敷地は、現在の甘縄神明宮の地であったと言われている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.314057/139.537193/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<扇谷上杉邸>
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 扇谷上杉氏は、上杉4家の一で、後に関東管領を世襲した山内上杉氏の次に勢力を持った一家である。殊にその家宰太田道灌の活躍で知られ、鎌倉の屋敷は、太田道灌邸のすぐ近くにある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.324842/139.550647/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<北条氏常盤亭>
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 北条氏常盤亭は、大仏切通しの北に接する要地に7代執権北条政村等の北条一族の有力者が別邸を構えた場所である。谷戸の中にやぐらと呼ばれる横穴形式の鎌倉独特の墓や、「タチンダイ(館ノ台)」という地名などが残る。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.323547/139.537107/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<梶原景時供養塔>
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 梶原御霊神社の西隣の深沢小学校の裏手に、御家人達から弾劾されて討たれた梶原景時の供養塔が残っている。学校の敷地内なので、普段ならば入れないのだろうが、行った時は秋口でたまたま運動会が開催されており、お参りできた。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.331320/139.521099/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

※過去の鎌倉史跡めぐりは、こちらこちらこちら
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