小田屋敷(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]
←富士見台公園の東端付近
小田屋敷は、滝山城主北条氏照の重臣小田野源太左衛門の居館である。源太左衛門の父小田肥後守定久は藤原氏の流れで、北条氏照に仕えた。流離の後にこの地に住して、1616年に没したと伝えられている。「流離の後」と「新編武蔵国風土記稿」にあるので、おそらく1590年の北条氏滅亡後にこの地に辿り着いたものだろう。定久の死後、その子源太左衛門周定は教福寺を建立したと言う。
小田屋敷のあった地は、現在は多摩ニュータウンの開発で地形が激変しているため、日本城郭大系の要図と見比べても、その位置を正確に知ることは至難の業であるが、おそらく富士見台公園の東端付近の傾斜地にあったものであろうか。ただの森林公園で遺構はないが、古代の住居跡の残る史跡広場があり、太古の昔から居館を構えるに好適な地勢だったことが伺われる。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.625105/139.388427/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
小田屋敷は、滝山城主北条氏照の重臣小田野源太左衛門の居館である。源太左衛門の父小田肥後守定久は藤原氏の流れで、北条氏照に仕えた。流離の後にこの地に住して、1616年に没したと伝えられている。「流離の後」と「新編武蔵国風土記稿」にあるので、おそらく1590年の北条氏滅亡後にこの地に辿り着いたものだろう。定久の死後、その子源太左衛門周定は教福寺を建立したと言う。
小田屋敷のあった地は、現在は多摩ニュータウンの開発で地形が激変しているため、日本城郭大系の要図と見比べても、その位置を正確に知ることは至難の業であるが、おそらく富士見台公園の東端付近の傾斜地にあったものであろうか。ただの森林公園で遺構はないが、古代の住居跡の残る史跡広場があり、太古の昔から居館を構えるに好適な地勢だったことが伺われる。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.625105/139.388427/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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